
ダリ劇場美術館は、バルセロナから高速鉄道で約1時間。フランス国境にも近い街、フィゲラス(Figueres)にあります。
ここは単なる「ダリ作品を集めた美術館」ではありません。建物の構想から設計、展示空間に至るまで、サルバドール・ダリ本人が深く関わり、自身の集大成として作り上げた場所です。
つまり、この美術館そのものが、巨大なダリ作品。
普通の美術館感覚で行くと、かなり面食らいます。そして恐らく、世界中どこを探しても、ここまで“作家の頭の中”がむき出しになっている美術館はそうありません。そんなダリへの敬意も込め、出来る限りその魅力が伝わるよう、かなり深く掘り下げて解説していきます。
なお、この記事はかなりボリュームがあります。そのため、「とりあえず美術館部分だけ知りたい」という方は、目次の「第9章 ダリ劇場美術館」から読み始めてください。
概要
ダリ美術館の建つ場所には、かつてフィゲラス市民劇場がありました。
そこは幼いダリが初めて本格的に芸術へ触れ、強い衝撃を受けた特別な場所でもあります。さらに劇場の目の前には、ダリが洗礼を受けた教会が建ち、また14歳の少年ダリの作品が初めて展示された場所でもあったため、彼にとって非常に思い入れの深い場所でした。
しかし、この市民劇場はスペイン内戦によって破壊され、その後長い間、廃墟のまま放置されます。その劇場跡地を利用し、フィゲラス市長や市議会の協力のもと、1974年にダリはここへ自身の美術館をオープンさせました。
つまり、この美術館は単なる展示施設ではなく、“ダリ自身の人生そのもの”と深く結びついた場所です。
館内には、ダリが生涯を通して制作した4000点以上の作品が所蔵され、世界最大級のシュルレアリスム作品コレクションを持つ美術館としても知られています。そして、この美術館で最初に誰もが驚かされるのが、その異様な外観。巨大な卵、赤い壁、不気味な装飾…。建物そのものが既にダリ作品化しています。
普通の美術館の感覚で近づくと、かなり戸惑います。ただ、驚きは外観だけでは終わりません。館内へ入ると、
- 雨降りタクシー
- 巨大な騙し絵
- 意味不明なオブジェ
- 空間そのものを使った演出
など、完全に“ダリの頭の中”へ入り込んだ様な世界が続きます。特に有名なのが、「20メートル離れるとリンカーンの顔に見える、ガラの後ろ姿」という巨大作品。
近くで見ると単なる点や写真の集合なのに、距離を取ると突然リンカーンの顔が浮かび上がるという、非常にダリらしい騙し絵です。実際に見てみると、「なるほど、だから“劇場美術館”なのか」と納得します。
ここは単に絵を並べる場所ではなく、“体験する舞台”として作られています
ダリ年表
ダリは、生涯を通して、自分自身の人生で起きた重要な出来事を作品へ反映し続けた芸術家でした。単に「綺麗な絵」を描くのではなく、
- 幼少期の体験
- 家族との関係
- 恐怖
- コンプレックス
- 性的な不安
- 死への執着
そうした極めて個人的な感情を、作品の中へ何度も繰り返し登場させています。またダリは、自分だけの象徴的イメージ、いわゆる“アイコン”を数多く生み出しました。例えば、
- 溶ける時計
- 蟻
- 卵
- 松葉杖
- 引き出し
- 柔らかい人体
など。それらは単なる奇抜なデザインではなく、少年時代のトラウマや不安、欲望などを比喩的に表現したものが非常に多く、ダリ作品を理解するうえで重要な鍵となっています。
ただ、ダリの作品で厄介なのは、それらの意味が必ずしも明確ではないこと。時には本人しか分からない様なメッセージまで混ざっていて、見る側を混乱させます。
そして、もう一つ。ダリの人生と作品を読み解くうえで、絶対に外せない存在が妻の Gala Dalí です。ガラは単なる妻ではありません。
- ミューズ
- マネージャー
- 精神的支柱
- 商業面の管理者
その全てを担った存在であり、ダリ後半生の作品世界にも非常に強い影響を与えています。実際、ダリ自身、「ガラなしでは自分は存在しなかった」と言っているほどです。
以下、そんなダリの人生を理解するために、まずは大きな出来事を年表形式でまとめてみました。
| 1904年 |
5月11日、スペイン カタルーニャ州フイゲラスで生まれる。 |
| 1917年 |
版画学校教師フアン・ヌーニネスの指導を受け印象派、点描派の影響を受ける |
| 1921年 |
マドリード王立美術学校に入学。ロルカ、ブニュエルと親交を結ぶ。
母フェリーパ死亡。 |
| 1926 |
ピカソに会う。10月、美術史の答案提出を拒み、放校処分。 |
| 1927 |
フロイトの精神分析学を読む。この頃パリのシュルレアリスムの影響もみられる。 |
| 1929 |
パリのシュルレアリスト達と接触。ガラと恋に落ちる。ブニュエルと共同で前衛映画『アンダルシアの犬』を制作しパリで上映。 |
| 1930 |
スペインの建築家のガウディやオランダのフェルメールなどに影響を受け、
「二重像(ダブルイメージ)」を描き始める。 |
| 1931 |
『記憶の固執』など、柔らかい時計の現れる作品を描き始める。 |
| 1932 |
ミレーの『晩鐘』をテーマとする一連の作品を描く。 |
| 1934 |
シュルレアリスムグループから除名される。ガラとともに初めてアメリカを訪問する。 |
| 1938 |
ロンドンでフロイトに会う。 |
| 1939 |
バレエなどの台本を書き、衣装および舞台装置をデザインする。 |
| 1940 |
アメリカに亡命。 |
| 1948 |
アメリカからスペインへ帰国。原子主義、神秘主義を発展させる。 |
| 1958 |
新たにガラと宗教的結婚をする。 |
| 1974 |
フィゲラスのダリ劇場美術館開館。 |
| 1982 |
妻ガラ死去。ダリはプボルの館で悲歎・憔悴の日々を送る。 |
| 1984 |
火災に遭い、ダリ全身に火傷を負う。バルセロナの市立病院に入院。 |
| 1989 |
フィゲラスで死亡。フィゲラスのダリ劇場美術館に埋葬される。 |
ダリの代表作

「記憶の固執」は中学校の美術教科書にも載る事の多い、ダリの代表作です。作品に描かれている“溶ける時計”は非常に有名で、
などとも呼ばれ、シュルレアリスムを語る際には必ずと言っていいほど登場します。また、この作品は20世紀美術を代表する作品の一つとも言われ、現在は Museum of Modern Art (ニューヨーク近代美術館)に所蔵されています。
絵の中には複数の時計が描かれていますが、それぞれ微妙に時間が異なっています。これは、“現在の記憶と過去の記憶が混ざり合う、時間の存在しない状態”を表現しているとも解釈されています。
また、右上に描かれている岩場は、ダリが長年暮らしたポルトリガットの家の近くにある クレウス岬 。現在でも実際に見る事が出来る風景です。
そして、この作品最大の特徴でもある“溶ける時計”。これは、キッチンで妻ガラが食べていたカマンベールチーズが暑さで柔らかく溶けていく様子から着想を得たと言われています。
ただ、ダリ作品は単なる思いつきだけでは終わりません。ダリは生涯を通して、
この両極への強い執着を持っていました。その背景には、幼少期から抱えていた強いコンプレックスや不安、精神的トラウマなどが影響しているとも言われています。
そういう意味では、この作品は、“硬い時計”という本来絶対に変形しない物体が、ぐにゃりと崩れ落ちる。まさにダリ的世界観そのものを象徴した作品とも言えます。
なお、この 「記憶の固執」 は、後にダリ自身によって再構成されています。約20年後、ダリが“原子核神秘主義時代”へ入った頃、この作品は再び描き直され、「記憶の固執の崩壊」として新たな形へ変化しました。
つまり、この作品は単なる代表作ではなく、ダリ自身の人生と思想の変化まで映し出している作品でもあるのです。
キーワードを読み解く

シュルレアリスム(超現実主義)と呼ばれるダリの作品世界。日本語では「超現実主義」と訳されますが、その名の通り、現実をそのまま描くのではなく、
など、人間の内面世界を絵として表現しようとした芸術運動です。そのため、Salvador Dalí の作品には、
- 溶ける時計
- 宙に浮く物体
- 不自然に変形した人体
- 現実には存在しない空間
など、不思議で奇妙なイメージが次々登場します。初めて見ると、「何を描いているのか全く分からない」
と感じる人も多いはずです。ただ、ダリの作品は“意味不明な絵”を適当に描いている訳ではありません。そこには、
- 少年時代の記憶
- 家族との関係
- トラウマ
- コンプレックス
- 性への不安
- 死への恐怖
など、非常に個人的な感情や象徴が数多く隠されています。そして、それらを理解する鍵になるのが、ダリ独特の“キーワード”や“象徴(アイコン)”です。
以下、ダリ作品を読み解く上で、事前に知っておくとかなり理解しやすくなる重要なキーワードを紹介していきます。
兄の身代わり

更なるトラウマ

ダリの父親は息子へ深い愛情を注いでいましたが、その一方で、子供の本当の心の内を理解できず、亡くなった兄の身代わりのようにダリを扱ってしまいました。
また、ダリは子供の時に父親から性教育としてたくさんの梅毒患者のグロテスクに損傷した性器の写真を見せられたため、性に対する恐怖心が刷り込まれ、それがダリが女性恐怖症になった原因と言われ、更なるトラウマを生涯抱えることになります。
ただ、そんな中で唯一の救いだったのがダリの母親でした。彼女はダリが望むものを何でも与えただけでなく、情緒不安定だった幼少期のダリを、常にやさしく包み込んでくれました。
子供の頃のダリは怒りっぽく、時には理由もなく友人を橋から突き落とすような行動を取ることもあったと言われています。それでも母親だけは、常に深い愛情でダリに接し続けたのです。
しかし、そんな母もダリが17歳の時にガンで亡くなってしまいます。以降ダリは、自分を無条件に愛してくれた母の面影を求め続けることになり、それが後に述べるガラとの出会いへ繋がっていきます。
※生前のダリは様々な精神障害の特徴を示していたと言われており、中でも自己愛性パーソナリティ障害については、専門家から強く指摘されています。
運命の女性との出会い

既に述べた幼少期のトラウマを抱え、また母の面影を求め続けながら成人していったダリですが、1929年、運命の女性と出会います。
それが、シュルレアリスムの詩人 ポール・エリュアール の妻であり、ダリより10歳年上のロシア人女性ガラでした。当時、ダリの絵を扱っていた画商と共に、エリュアール夫妻はスペインに住むダリのもとを訪れます。
そして二人は出会って間もなく強く惹かれ合い、その後、夫エリュアールの了承のもとで恋愛関係を始めることになります。幼少期から深いトラウマと精神的葛藤を抱えていたダリにとって、ガラの存在は大きな救いとなりました。
彼女はダリにインスピレーションを与えるミューズであり、時には母親のような存在であり、また仕事面では広報役でもありました。さらに敏腕マネージャーとして、アメリカの画商へ積極的に作品を売り込み、後にダリの象徴ともなる髭(ひげ)や奇抜なパフォーマンスも、彼女の演出だったと言われています。
後にダリは、作品へ「ガラ・サルバドール・ダリ」と署名するようになるほど、二人は強い絆で結ばれていきました。以上が、ダリ作品の根底に流れる重要な背景です。
それでは次に、彼の作品そのものの特徴について解説していきます。
ダリ芸術のキーワード
ダリの生い立ちなどを知った後、ここではダリの作品上の重要なキーワードを解説していきます。
シュルレアリスム

日本語に直訳すると「超現実主義」。
夢や無意識の力を借りて作品を生み出す芸術運動であり、現実にはありえない世界を表現するアートです。20世紀の芸術界へ与えた最大の影響の一つとも言われており、その影響は絵画だけでなく、文学や映画など様々な分野へ広がっていきました。
しかし1930年代、ヨーロッパでは アドルフ・ヒトラー 率いるナチス・ドイツが台頭します。そしてシュルレアリスムは、一般人には理解し難い芸術として、ナチスから「退廃芸術」とみなされ弾圧の対象となりました。
その後、ナチスによるフランス侵攻の時期に、ダリを含むパリで活動していた多くのシュルレアリストたちは、アメリカへ亡命することになります。そして結果的に、それまでヨーロッパ中心だった前衛芸術の流れはアメリカへ移り、後に現在へ続く抽象表現主義の土台が築かれていくことになります。
なおシュルレアリスムは、その発展の過程で「今まで誰もやったことのない表現」を追求し続けた結果、実に多様な表現手法を生み出していきました。
フロイトの精神分析論

オーストリアの精神科医、ジークムント・フロイトが提唱した理論で、人間の言葉や行動、空想、夢、さらには心理的症状の背後にある「無意識」の意味を理解しようとする方法論です。
その中で用いられた代表的な手法が「自由連想法」でした。これは、ある言葉(キーワード)を与えられた際に、頭に浮かぶまま自由に言葉や考えを連想していき、その関連性を分析することで、潜在意識を顕在化し、心理的抑圧の原因を探ろうとするものです。
一方、それまでの芸術は表面的なものに過ぎず、人間の本当の深層心理を表現していないと考えていた芸術家たちの多くが、このフロイトの理論に強く共鳴しました。そして精神分析学を思想的支柱として誕生したのが、前項で述べたシュルレアリスム(超現実主義)です。
なお、ダリ自身もフロイトから非常に強い影響を受けており、後年にはフロイト本人を訪ね、直接面会したほどでした
偏執狂的批判的方法

「偏執狂的」とは、文字通り、何かへ異常なほど執着し、精神が正常ではない状態を意味します。
一方「批判的方法」の“批判”とは、ここでは単に否定的に考えることではなく、頭を使って対象を分析し、評価・判断することを指しています。具体例として、ダリが作品の中で繰り返し取り上げた、フランス人画家 ジャン=フランソワ・ミレー の《晩鐘》を見てみましょう。
この作品は、本来、農作業中の夫婦が夕方の教会の鐘を聞き、手を止めて祈りを捧げている場面を描いた絵画です。しかしダリは、この作品を全く異なる視点で解釈しました。彼によれば、夫婦の間の地面には死んだ子供が埋められており、二人はその死を悼んでいるというのです。
もちろん一般的解釈ではありませんが、「そう言われると、そう見えなくもない」。これこそが、ダリの言う「偏執狂的」な見方でした。さらにダリ自身の作品を見ると、《晩鐘》の構図をそのまま引用しながら、夫婦の身体には杖が突き刺さり、夫は骸骨のような姿へ変化し、帽子を腰の前へ置いています。
この骸骨や身体へ突き刺さった杖は、強烈な“死”のイメージを感じさせます。一方、帽子についてダリは、勃起した股間を隠しているものだと解釈しました。
つまり彼は、この作品の中で、「死」と「性欲」が同時に存在する人間の理不尽さを表現していたのです。このように、たとえそれが自分自身の妄想や偏った解釈であったとしても、それを客観的なイメージとして作品化し、他者へ伝達すること。
それが、ダリの「偏執狂的批判的方法」の核心なのです。
ダブル・イメージ(だまし絵)

次に、「偏執狂的批判的方法」の中でよく使われたのが、「ダブル・イメージ」と呼ばれる、いわゆる“だまし絵”の手法です。
これは、あるイメージを別のイメージへ重ね合わせ、一つの作品の中で複数の意味を成立させる表現方法です。例えば上の作品《水面に象を映しだす白鳥》では、一見すると三羽の白鳥が静かに水辺へ佇んでいるように見えます。
しかしよく見ると、水面へ映った白鳥の姿は象にも見え、さらに白鳥の後ろに描かれた枯れ木は、水面へ反映することで象の脚の部分になっています。つまり鑑賞者は、ダリが現実に見ていた白鳥と、夢想状態の中で見えていた象、その二つの異なるイメージが交差する境界を見ることになります。
そして、その曖昧な境目から、もう一つ別の“現実”が立ち上がってくるのです。この錯覚を利用した手法は、観る者に“だまし絵”ならではの面白さを与えてくれます。
ただ一方で、その仕掛けを見抜けないと、正直かなりイライラします。特にダリ作品の中には非常に難解な“だまし絵”も多く、もしかすると「自分の頭が硬いのでは?」と少し落ち込むかもしれません。
作品に多用される象徴

次に、ダリの作品には繰り返し登場する様々な象徴(アイコン)があります。
作品を鑑賞する前に、それぞれが何を象徴しているのかをある程度知っておくと、作品理解の助けになります。ただし注意が必要なのは、全てのアイコンに明確な意味があるわけではないという点です。
中にはダリ自身が特に意味もなく使っていたものや、本人にしか理解できない極めて観念的なイメージも数多く含まれています。
その中でも比較的分かりやすい象徴としては【蟻】【卵】【引き出し】【ガラ】【ライオン・虎】などがあります。

なお、上記の中には、実際にはダリ本人から明確な説明がされておらず、現在でも何を象徴しているのかよく分かっていないものがあります。
代表的なのが【溶ける時計】や【宇宙象】です。一般的には「時間の消滅」「時空の歪み」などと言われていますが、実際のところ、その多くは後世の専門家たちによる解釈に過ぎません。
また逆に、本人による説明は残されているものの、その説明自体が意味不明で理解し難いアイコンもあります。代表的なのが【サイの角】や【カタツムリ】です。
例えばサイについてダリ本人は、「自然界には、サイの角の曲線ほど完璧な対数螺旋構造のモデルは存在しない」と語っています。またカタツムリについては、「フロイトを訪ねた際、彼の家の外にあった自転車へ張り付いていたカタツムリが、フロイトの頭のつむじに見えた」と説明しています。
正直、本人以外には何を言っているのかさっぱり分かりません。また【バッタ】は、子供の頃から気持ち悪くて大嫌いだったから。逆に【ロブスター】や【ウニ】は、単純にシーフードが大好物だったから。
ダリは、それくらいの感覚で作品へ登場させていることもあります。ですので、あまり難しく考え過ぎず、分かり難いアイコンや、ダリ本人ですら説明しきれていない感覚まで無理に理解しようとしなくても大丈夫です。
むしろ、それぞれが自由な感覚で観て、感じることの方が重要なのかもしれません。実際ダリ本人も、「作品は観る者が自由に感じれば良い」と語っています。
それでは次に、ダリの代表作品を年代順に紹介していきます。
主要作品(年代順)
学生時代 1920 – 1928

ジュリー(沢田研二)にも似た自画像 1921年
裕福な家庭に生まれたダリは、幼い頃から素描や絵画に強い関心を示していました。
やがて両親も息子の才能に気付き、その支援を受けながら、ダリは本格的に絵を学んでいきます。そんなダリが最初に強い影響を受けたのが、地元フィゲラス出身の画家 ラモン・ピチョット でした。
ダリは彼から、点描法や表現主義、フォービズムなどの影響を受け、《父の肖像》や、《ラファエロ風の首をした自画像》などを描いています。特に当時のダリは、ルネサンスの巨匠 ラファエロ に強く心酔していました。
そして1922年、父親の勧めに従い、ダリは パブロ・ピカソ も学んだ、マドリッドの名門美術学校《サン・フェルナンド王立アカデミー》へ入学します。ここで出会った映画監督 ルイス・ブニュエル と、詩人 フェデリコ・ガルシア・ロルカ は、その後のダリの人格形成へ決定的な影響を与える存在となりました。

王立美術アカデミー在籍中の数年間、ダリはキュービズム、未来派、形而上絵画など、当時の様々な前衛芸術手法を積極的に取り入れていきます。
また前衛芸術だけでなく、新古典主義の画家たちからも影響を受け、まるで写真のように精密な作品も描いています。その代表作の一つが、左下の《窓辺の人物》です。ちなみに、この絵で窓辺から海を見つめている女性は、ダリの妹アナ・マリアです。
そんな美術学校在籍中の1926年4月、ダリは旅行で パリ を訪れます。パリでは パブロ・ピカソ 本人に会い作品を見せてもらった他、若い芸術家たちが集うカフェへ通い、強い刺激を受けました。
また ルーブル美術館 では、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、アングル などの作品を、毎日何時間も眺めながら過ごしています。そうしたカルチャーショックとも言える刺激を受けてマドリッドへ戻ったダリは、これまで学んできた王立美術アカデミーの保守的な姿勢へ真っ向から反発するようになります。
そして教授たちに対して、「彼らには自分を評価する能力すらない」と言い放ち、ついには退学処分となってしまいます。こうして完全に自由となったダリは、その後、新たな表現方法の模索へ没頭していきます。
そして辿り着いたのが、後に彼の代名詞ともなるシュルレアリスムでした。その初期作品の一つが、1928年に描かれた《鶏肉の始まり》です。

シュルレアリスムの勃興 1929 – 1935
