スペインが生んだ偉大な芸術家パブロ・ピカソ。キュービズムに代表される難解な作品が多い中、子供の頃から晩年までのピカソ作品の変化と成長が時代系列で見れるこの美術館を徹底解説していきます。
目次
バルセロナとピカソ
スペインが生んだ偉大な芸術家パブロ・ピカソ。1881年にアンダルシアのマラガに生まれたピカソは、その生涯において一万点を超える油絵とデッサン、更に10万点にも及ぶ版画、数百点の彫刻や陶器作品を製作するなど、非常に多作な芸術家としても知られ、それはギネスブックの世界記録にも登録されているほどです。
また、キュービズムと呼ばれる芸術動向の創始者とされ、従来の遠近法(一点透視図法)によらず、異なる複数の視点からとらえた物体の形を一つの画面に描写し、断片化された平面として再構成する独自の表現方法を確立したことで、世界で最も著名な画家の一人となりました。
そんなピカソが1895年から1904年にかけて、多感な10代を過ごしたのがバルセロナです。
ここで紹介するMuseu Picasso(ピカソ美術館)は、バルセロナのゴシック地区の東に位置するMontcada(モンカダ通り)に13~14世紀に建てられた貴族の邸宅を含む5軒の建物を改装し1963年に開館しました。美術館のある狭いモンカダ通りには昔のお屋敷跡が並び、今でも中世の雰囲気が色濃く残っています。
パブロ・ピカソ年表
スペインの南のアンダルシア地方のマラガ市で生まれたピカソですが、実際にスペインに住んでいたのは若い頃だけです。
ここで彼の軌跡をたどってみると、バルセロナには 1895~1904年 の9年間過ごしましたが、その後92歳で亡くなるまでの人生の殆どをフランスで過ごしました。
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1881年 | 10月25日、南スペイン・マラガで絵の教師の子として生まれる。 |
1892年 | ラ・コルーニャにある父の教える美術学校に入学し、美術の基礎を学ぶ。 |
1896年 | バルセロナの美術学校に入学。 |
1897年 | 「科学と慈愛」がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞。*ここバルセロナに展示 |
同年 | 「科学と慈愛」がマラガの地方展にて金賞を受賞。 |
同年 | 秋、マドリードのサン・フェルナンド王立アカデミーに入学。のち中退。 |
1899年 | バルセロナに居を構え、絵に専念する。 |
1900年 | 初めてパリを訪問。バルセロナとパリを行き来する。 |
1901~1904年 | 【青の時代】親友カサジェマスの自殺にショックを受け、青く暗い色で売春婦や乞食などを描く。 |
1904年 | パリ・モンマルトルに住みはじめる。 |
1904~1907年 | 【バラ色の時代】恋人フェルナンド・オリヴィエと知り合い、明るい色調でサーカスの芸人などを描く。 |
1907~08年 | 【アフリカ彫刻の時代】アフリカ彫刻の影響を強く受ける。 |
1909~1912年 | 【分析的キュビスムの時代】ジョルジュ・ブラックと二人で立体派=キュビスムを追究。 |
1912~1918年 | 【総合的キュビスムの時代】コラージュ技法を開発。 |
1918~1925年 | 【新古典主義の時代】古典的写実に向かって量感のある母子像を描く。 |
1925年~ | シュールレアリズムの影響を受け、スペインの闘牛図を描く。 |
1937年 | ナチスによるゲルニカの町の爆撃に憤って世紀の大作「ゲルニカ」をパリ万国博覧会にて発表。 |
1945年~ | ムルロー工房にてリトグラフィーを本格的に取り組む。 |
1950年 | 過去の巨匠の作品をアレンジし、新たな作品を描く。 |
1968年 | 47点に及ぶエロティックな銅版画を制作。 |
1973年 | 4月8日、南仏ムージャンの自宅にて92歳の生涯を閉じる。 |
代表的な作品
ゲルニカ(Guernica) 1937作
代表的なピカソの作品としては、日本の学校の教科書や授業などでも取り上げられる絵画「ゲルニカ Guernica」が最も知名度が高いと言えます。
この絵はドイツ軍によってスペイン北部のビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題として、ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画です。
発表当初の評価はそれほどではありませんでしたが、いつからか反戦や抵抗のシンボルとなり、20世紀を象徴する絵画とされ非常に高い評価を得ています。
現在、この絵はマドリード市内の国立ソフィア王妃芸術センターで見ることができます。
アビニヨンの娘たち(Les demoiselles d’Avignon)1907年作
次に代表作と言われるのがこの作品で、描かれているのはバルセロナの売春宿があったアビニヨン通りの5人の裸の娼婦です。
他にも、ピカソの愛人ドラ・マール(Dora Maar)をモデルにした絵画「泣く女」(1937年)も有名な作品の一つで「泣く女」をモチーフとしたバリエーションは100種類以上存在すると言われ現在この作品は、ニューヨーク近代美術館で見ることができます。
時代で変化していく作風
巨匠と言われるピカソですが、しかし彼の絵を見て「これはすごい」と心の底から思える人はあまり多くなく、実際の所は「このくらいの絵なら、もしかして子供でも描けるんじゃないか」と思う人もいるでしょう。
あまり知られていませんが、実はピカソは幼少時代から大変絵が上手で、その写実的な絵は写真の様な完璧さでした。それが彼が歳を重ねると共に作風が変化し、現在私達のイメージするピカソ作品になって行きます。
ここではその変化の過程を、時代ごとにまとめてみようと思います。
【青の時代】 1901-1904
ピカソが二十歳を過ぎた頃の薄暗く陰気な青を主に用いた作品が続いたこの頃が「青の時代」と呼ばれます。一説には1901年2月に親友カルロス・カサジェマス(Carlos Casagemas)が、恋愛沙汰でピストル自殺を図った事件に影響を受けたとも言われます。
この時代を象徴する代表作は、親友カサジェマスと恋人のジェルメーヌが抱き合う姿が描写された「人生 La Vie(ラ・ビィ)」。
また、その他にこの時代の代表作には、ギターを弾く老人を描いた「老いたギター弾き」、暗い表情を浮かべ海辺で身を寄せ合う家族を描いた「悲劇(海辺の貧しい家族」「盲人の食事」などがあります。
【ばら色の時代】 1904–1906
恋人フェルナンド・オリヴィエと同棲を始めたピカソ。この頃、彼女からフランス語を学んだり、ひたすら絵を描けるようにと精神的な安定を与えられ、彼の人生に変化が訪れることになります。
以降は「青の時代」の表現は影を潜め、ピカソは彼女の美しい裸像や身近な人々の肖像画を初め、彼女の仲間たち、俳優、サーカスの芸人たちをバラ色を基調とした暖かい色で描くようになりました。画像:パイプを持つ少年 1905年
【アフリカ彫刻の時代】 1907–1909
1907年ごろからパリではアフリカ彫刻が流行りはじめ、ピカソもその影響を受けます。代表作の一つとして既に述べたキュビズムの原点となる絵画、アヴィニョンの娘たち( Les demoiselles d’Avignon)は、そのアフリカ彫刻・古代イベリア彫刻などの影響を受けて製作されたものです。
また、この時期に醸成されたアイディアは次のキュビズムの時代へ直接結びついてゆきます。
【キュビスムの時代 】 1909-1912
ピカソは1917年から、それまで何が描かれているのか判別がつきにくかったキュビスムによる表現、それを一変させたのがこの時代です。
その中でもセザンヌに強い影響を受けたのが、セザンヌ的キュビスムの時代と呼ばれ、またジョルジュ・ブラックと共にキュビズムを創始したのが、分析的キュビスムの時代と呼ばれています。
そして、最後にファインアートで初のコラージュ技法を用いたのが、総合的キュビスムと呼ばれるものです。画像:マンドリンを持つ少女 1910年
【新古典主義の時代】 1918-1925
第一次世界大戦(1914-1918)中の1917年、バレリーナのオルガ・コクローヴァと知り合い、翌年に結婚したピカソは、この頃から古典的で写実的な描法を次々と生み出していくことになります。
1917年作の「安楽椅子のオルガ」では、奥行きの描写にキュビズム的な要素を残しつつも、オルガの顔や腕は丸みを帯びていて、それまでの作品と一目で違いがわかるほどに写実的に描かれています。画像:母と子 1921年
【シュルレアリスムの時代】 1925-1936
この当時のピカソは新しい表現を模索していた頃で、そんな中、シュルレアリスム(超現実主義者)たちから大きな刺激を受けます。
その結果、人物を現実には存在するはずも無い、非現実的な形態に変えて描くようになっていきます。想像力が駆使された超現実主義的な手法でピカソ独自の世界が展開されたこの時代を「シュルレアリスムの時代」と呼びます。
また、妻オルガとの不和で精神的にも不安定となったこともあり、非現実的で怪物のようなモチーフを数多く描くこととなりました。画像:マリー・テレーズの肖像 1937年
更に詳しい解説は、この後バルセロナ・ピカソ美術館の所蔵する代表作品の紹介と共にしていきます。
バルセロナピカソ美術館
概要
美術館は1963年、貴族のバランゲー・ダギラル邸跡に作られました | |
狭い通り | 貴族の邸に似つかぬピカソ作品 |
この美術館の始まりは、ピカソがその青春時代をバルセロナで過ごし少なからず縁があったと言うのもありますが、バルセロナ生まれで幼いころからピカソの親友であったジャウマ・サバルテスの尽力によるところが非常に大きく、彼の長年に渡るバルセロナ市との粘り強い交渉が実り1963年に美術館の開設に漕ぎつけました。
オープンにあたっては、サバルテス自身が所有していたピカソのコレクションを全て美術館に寄贈。オープン初期は、それらの作品を中心に美術館の展示の全体構成を行いました。 | |
その後、1968年に亡くなったサルバテスに敬意を表し「ラスメニーナス」の連作をピカソ自らが寄付。また1970には、ピカソのバルセロナに住む家族の家に保管されていた作品921点も寄付されます。 |
更にあの奇才、サルバドールダリも自身が所有していた30点のピカソ作品を寄付。美術の教科書で見るような有名作品こそありませんが、徐々にそのコレクションを充実させて来ました。
【ジャウマ・サバルテス】
バルセロナ生まれの詩人、作家でピカソ8歳からの友人でありまた良き理解者。1935年よりピカソとの仕事をを始め、秘書となります。
美術館にはピカソが描いた彼の肖像画が幾つもあります。ちなみに彼の親戚にはカタルーニャを代表する芸術家の、あのミロがいました。
所蔵品の特徴
日本人がイメージするピカソ作品と言えば、「ゲルニカ」のようなキュビスムの時代の絵となります。ただ、ここバルセロナのピカソ美術館は3800点の展示を誇りこそしますが、既に述べた通り残念ながらあまりメジャーな作品はありません。
ただ、その代わり私達が教科書で見たこともないような、あまり知られていないピカソの少年時代や、その後の「青の時代」の作品が多く見ることが出来、それらは以下の様に年代別に非常に分かり易く展示されているので、ピカソの生涯の絶対像を知る上ではまたとない機会になるはずです。
バルセロナでの修業時代 →青の時代 →薔薇の時代 →キュビスムの時代 → 晩年
作品は時代順に並んでいるので、特に考えることなく館内に示されている矢印通りに進んで観て行って下さい。
尚、作品のボリュームは結構あります。目安の見学所要時間は約1時間ほどですが、日本語のオーディオガイドを聞いて、丹念に見ていくと更に時間が掛かります。
また、季節によって展示内容が変わる「企画展」に関しては、展示内容にもよりますが、15分~20分あれば十分に網羅できる見学ボリュームです。
では、これより美術館所蔵の作品の中でも特に佳作と言われる、主な作品を以下紹介していきますので、稀代の天才画家のルーツを時代ごとに追ってみて下さい。
少年時代
15歳の時の作品「初聖体拝受」や、16歳で数々の賞を受賞した「科学と慈愛」(画像上)は、伝統的・写実的な手法で描かれた人物画です。
キュビズム以降のいわゆるピカソらしい絵、言い方を変えると意味不明とも取られかねない絵と違い、ある意味誰が見ても普通に絵がうまいと感じられる作品。初めて見られる方は、きっと当時のピカソ少年の絵に驚くことでしょう。
学校での創作活動以外に、余暇として家族や親せき、知り合いなどの肖像画を描き、また風景画なども描いていました。特に「ベレー帽の男」と題した作品では、モデルの男の肌合い、白髪交じりのたくわえた髭、そして何よりも鋭いまなざしを通して、田舎者らしいその寡黙で粗野な雰囲気を僅か14歳の少年が描き出したとは驚きです。
ちなみに、14歳でこの絵を描いた息子の上達ぶりに驚いた美術教師の父のホセは、自分の絵の具と筆をピカソにゆずり、絵画において息子が既に自分を越えたことを認めたと言われています。
バルセロナ前衛運動
19世紀の末のバルセロナでは、建築、絵画、文学などあらゆる芸術分野において伝統の価値観から脱すことを目指すモデルニスモと呼ばれる文芸運動が流行していて、その中心となっていたのが今も現存するカフェレストランの「Els 4GATS」。日本語で4匹の猫と言う意味のパリのカフェの雰囲気を再現した店は、当時のカタルーニャ前衛主義を代表するアーティストのたまり場となっていました。
その当時、マドリッドのサン・フェルナンド王立アカデミーに在学中に猩紅熱(しょうこう熱)にかかったピカソは学校を一旦休学してカタルーニャに戻り田舎の村で静養します。
静かな環境で一人になって気付いたのは、これまでの決まりきった美術学校の授業に自分が満足出来ていなかったこと。最終的にはスペイン屈指の美術エリートと言われた学校をやめてしまい、17歳で現在で言うところのニートとなってしまいます。
そんなニートのピカソの心を惹きつけたのが、前衛アーティストのたまり場であった「Els 4GATS」。瞬く間にその常連の1人となったピカソですが、同時にカフェにあふれるボヘミア的雰囲気がピカソの画風を変えていきます。(上の絵はピカソが書いた店のメニュー)
19世紀の末のバルセロナでは、建築、絵画、文学などあらゆる芸術分野において伝統の価値観から脱すことを目指すモデルニスモと呼ばれる文芸運動が流行していて、その中心となっていたのが今も現存するカフェレストランの「Els 4GATS」。日本語で4匹の猫と言う意味のパリのカフェの雰囲気を再現した店は、当時のカタルーニャ前衛主義を代表するアーティストのたまり場となっていました。
【Els 4Gats】 (クアトロ ガッツ) バルセロナ下町、ピカソが通い詰めた、パリの雰囲気ただようカフェレストランは…. |
それまで描いていた家族や親戚の肖像画は、ピカソが通っていたバルや売春宿の人々を描いたものになります。
例えば「エル・ディパン」と題した絵は売春婦と客の姿、そしてその二人の背後から眺める売春宿の主人の姿、グレコ風に書いた見知らぬ人の肖像画、ふざけているか真面目なのか分からない、白髪のかつらをつけた自画像など、これまでとは全く違った筆遣いとテーマで描かれています。
パリへ2度の訪問
当時、数多くの画家、詩人、作家、作曲家、ダンサーが世界中から集まって来た、自由でコスモポリタンな街パリ。カフェ「Els 4GATS」で年上の芸術家達から、パリという街の魅力について常々さんざんに聞かされていたピカソ。実際、いつか行ってみたいとピカソ自身も思っていましたが、その機会は19歳の時にやって来ます。
1900年4月から11月にかけてパリで開催された万国博覧会。
そこで行われた「最後の瞬間」と言う芸術見本市にピカソの作品が展示されたのを機会に、同年10月に初めてパリを訪れます。2か月の滞在中はバルセロナのカフェで何度も聞かされていた念願のパリのキャバレー、ダンスホール、カフェに行き、そこでショーのダンサーや、高級娼婦など、モンパルナスの夜を彩どる人達と実際に触れ合う機会を得ます。
ためらわず人前で愛情表現する、オープンで屈託ない人間関係を目にピカソは驚き感動します。それもそのはず、ナポレオンにピレネー山脈を越えると、そこはアフリカと言われたぐらい、当時スペインはヨーロッパでも辺境地に属し、それ故に保守的で昔ながらのモラルに厳しかったからです。この後、一旦スペインに戻りこそしますが、翌年4月には魅了されたパリに再び戻ることになります。
【2度目のパリ】
最初のパリ訪問から4か月後、今度は同じスペイン、バスク地方出身のフランシスコ・イトゥリーノとのパリでの共同展示会の話が舞い込み、パリ行きが決まりました。2度目の訪問となる今回は、闘牛、競馬、花束、裸婦などの当時の人々の好む作品を中心に、合計64枚以上の油彩画とデッサンからなる作品を展示会用に描き上げ用意します。
その中でもピカソが世界的に知られるようになった出世作が、「マルゴット」と呼ばれる作品で、ゴッホに影響を受けたと言われる点描法を使った娼婦の絵です。黄色、赤、緑、黒などの原色を使った点描法を用い描いた背景の中、華やかな赤い洋服を着た娼婦に漂う、どことないけだるさを上手く描いています。
この作品は、ピカソが国際的に知られるきっかけとなった非常に有名な絵画でしたが、展覧会での作品の売り上げは低くこの後ピカソは経済的に困窮していきます。またそれは次の青の時代に徐々に移行する予兆でもありました。
青と薔薇の時代
2度目のパリ滞在も数か月が経ち、パリの生活で感じた最初の興奮も過ぎたちょうどその頃、親友の自殺を経験します。また、展覧会以降も思ったほどの収入を得られず、余裕のない生活に落ち込んでいたピカソ。
「マルゴット」に見られた、黄色、赤、緑などの華やかな色使いは次第に影を潜め、逆にそれまでの作品とは打って変わり、青い色調での作品が多くを占める様になっていきます。これがいわゆる”青の時代”の始まりでした。
この時代の初期作品としては「頭巾を付けた女」をはじめとする囚人達を描いたシリーズが有名。 | |
パリの北部にある女子刑務所(サンザラール刑務所)は当時数千人を収容していたと言いますが、ピカソはここを何度も制作の為に訪れます。
ただしこれらの作品は、犯罪者と言うテーマ、陰鬱な青色の寒色系トーン、更に舞台設定の欠如と言う事で当然ながら絵が全く売れず、これが自身のパリで困窮生活に決定的なとどめを刺すことになります。 |
ほどなくして、一旦バルセロナに引き揚げることになったピカソですが、バルセロナに戻ってからも”青の時代”は続き「バルセロナの屋上」や「身寄りのない人」などの、飢えや寒さ、失明や病気を繰り返しテーマにしたを描き続けました
【パリ3度目の訪問】
質素な食事 1904 | カナルス婦人 1905 |
一旦バルセロナに戻っていたピカソですが、1904年に3度目となるパリへ再び向かいます。ただ、これまでと違ったのは、今度はパリに定住することにしたことです。また、ピカソは19世紀以来様々な若き芸術家が住んでいた「洗濯船」と呼ばれる、日本で例えると、あの有名な漫画家アパート「トキワ荘」と言える、伝説のアパートにアトリエを構えます。
そこで出会った若き才能豊かな絵描、作家、詩人や知識人達から様々な刺激を受けたこと。更に、モデルのフェルナンド・オリヴィエと恋愛関係をもったことで生活が落ち着き、”青の時代”に見られた苦悶や不安から解放されます。それ以来バラ色を基調とした絵を描きだし、これがいわゆる”バラ色の時代”の始まりとなります。
ただ、一般に1904年から1906年を”青の時代”から”薔薇の時代”に呼び分けていますが、この2つは昔は同じ時代と認識されていたようです。なので同時代の「カナルス婦人」は確かにそうなのかと思えますが、「質素な食事」などは”青の時代”とどう違うのか? と言う程で時代の名前ほど作品に明るさは感じられず、実際この分け方は非常に微妙です。
ところで、詳しくは後で述べますが、この「洗濯船」で知り合った詩人のギョーム・アポリネールと共に、ルーブル美術館のモナ・リザ盗難事件で犯人の1人として、後にピカソはパリ警察に逮捕されています。
【洗濯船とは】 パリ18区のモンマルトル地区にあったアパートのニックネームで洗濯船という名前は建物が暗くて汚く、その外観はセーヌ川沿いに浮かぶ船を人々に想起させたことによります。 |
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当時、パリへ上京してきたさまざまな外国人文化人が洗濯船を住居にしたり、また会合の場所として利用しそんな中でもピカソが入居して、芸術家たちの注目を集め、多くの貧しい芸術家が入居するようになりました。
また1904年以後は、洗濯船は非公式のクラブのような場所になり、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、マリー・ローランサンなど多くの芸術家、画商などが集まります。 |
キュービズム
ルネッサンス以降のヨーロッパ絵画の世界では、遠近法を利用して目に見えるものを忠実にキャンバスに再現することが基本とされて来ましたが、写真の発明によりそれまでの画家の地位が根底から覆されることになります。
また同時にこれまでの、現実をただ写し取ることの虚しい執着に多くの芸術家が疑問を持ち始めた中で、ピカソは対象を色々な視点から見て、それを一つにまとめるキュービズムと言う芸術様式を始めます。そして出来上がったのが、残念ながらバルセロナにはありませんが、あの「アヴィニョンの娘達」です。
1906年に制作を開始、翌年の夏まで何百枚の下書きを描いて出来たと言うピカソ渾身の作。尚、このキュビスム黎明期に制作した作品と、後の「ゲルニカ」により、ピカソは20世紀の最大の芸術家と言う地位を不動のものにします。
尚、1907 ‐ 1917年のピカソのキュービズム時代初期の有名作品は、バルセロナのピカソ美術館には殆どありません。一応、美術館がその所蔵作品の中で佳作としているのが、ここにある上の絵「贈り物」と下の絵2枚「フランキータ・スアレス」「コロンブス大通り」の3つの作品。
古典からピカソ主義へ
決定的な転機となった「アヴィニョンの娘達」、それ以降もピカソは、キュービズムを更に分析キュービズム、総合キュービズムと進化させていくのですが、その途中に第一次世界大戦が勃発します。ヨーロッパ全土を巻き込み、4年に及んだ戦争は民間人を含め1,600万人の死者を出した末に終了はしますが、戦争中に多くの秩序が失われました。
戦後の芸術界は、やみくもに前衛、革新を求めるのでは無く、確固とした永続的な価値観に回帰しようとする時代の逆回転とも言える流れがここで起きます。ピカソもその例外ではなく、戦後はキュービズムから一旦、古典的なフォルムを多く使った作品へと方向転換。
ここバルセロナのピカソ美術館には、その時代の代表作と言える「アルルカン」と「マンティーリャをつけた女」を見ることが出来ます。
また、好奇心から….
ミノタウロマキア1935 |
あのサルバドール・ダリにより、広く知られるシュールレアリスム(超現実主義)。その提唱者であった、アンドレ・ブルトンとも交流。ピカソはブルトンが率いるシュールレアリスム運動に正式に参加こそはしませんでしたが、パリで初めて開催されたシュールレアリスム展覧会にも作品を出展するなど、積極的に作品の中に取り入れていきます。
中でもバルセロナ・ピカソ美術館の銅版画作品「ミノタウロマキア」は、ギリシャ神話に出てくる頭が牛で身体が人間と言う怪物ミノタウルスを、人間の残酷性のシンボルとしてピカソはシュールレアリスム的に表現しました。
また、この「ミノタウロマキア」は、2年後に描かれた「ゲルニカ」と、いくつもの共通する要素が含んでいて、「ゲルニカ」の構想を先取りしたものとみなされています。
第一次世界大戦が終了し、ヨーロッパに束の間の平和が訪れますが、ただそれも長くは続かず1939年に第二次世界大戦が新たに勃発。スペインではフランコ独裁政権が敷かれ、これ以降二度とピカソは母国スペインの地を踏むことなく一生を終えます。
また、パリが陥落、ドイツ軍の侵攻により多くの友人が亡命を余儀なくされ、ピカソは孤立の時代へと入ります。アトリエに籠ってひたすら創作活動を続ける中、具象派やキュービズム、ゆがんだ人物像、ゆがんだオブジェと言う、誰が見ても一目でピカソ作品と言う特徴がこの時期に完成されていきました。尚、この時代はキュービスム表現主義時代とも言われます。
ちなみに、ドイツ軍がパリに侵攻した際にはドイツ軍の戦争犯罪を厳しく批判した「ゲルニカ」を制作したピカソに対しては作品の発表を禁止した以外、迫害は加えませんでした。ピカソも公然たる反抗はしないで、静かに絵を描いていたのもありますが、彼の世界的名声がドイツ官憲の手を控えさせたと言われています。
名画の再解釈
【世界三大絵画とは】 世界三大絵画と言いながら実は4つあります。ベラスケスの『ラス・メニーナス』レンブラントの『夜警』エル・グレコの『オルガス伯の埋葬』そしてレオナルド・ダビンチの『モナ・リザ』 |
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このうちの3点が世界三大西洋絵画となりますが『ラス・メニーナス』だけは確定していて、残り2つは『オルガス伯の埋葬』『夜警』『モナ・リザ』の3つのどれかで、それらは諸説により異なります。 |
気晴らしの絵
「ラスメニーナス」シリーズの制作期間中に、ピカソは何度か休息を挟みます。英気を養う意味でお気に入りのテーマで気晴らしをしました。その中で描かれた「小鳩」は、カンヌのアトリエに作った鳩小屋をテーマにした連作です。また、恋人ジャクリーヌの肖像画なども描きました。
ところで、普通なら気晴らしと言うと散歩だったり、他の趣味となりますが、ピカソは気晴らしにも絵を描きました。そこが常人とは大きく違い、生涯に10万点を超える作品を残した所以と言えるでしょう。
あと、ピカソは絵画が有名ですが、戦後かなりの時間を陶芸制作に注ぎました。このラスメニーナスの制作時にも、休息がてらに「闘牛と魚」の様な楽しい皿を焼きます。これら陶磁器は美術館の中でも、特に中世の貴族の邸の雰囲気が色濃く漂う部屋に展示されていて、そのアンバランスな対比は絶妙です。
晩年
ピカソは芸術家としてのキャリアの終わりを前にして、絵画以外の仕事もします。その一つが18世紀の闘牛士、ぺぺ・イリョが書いた書籍の再刊プロジェクトで、そこではイラストレーターとして「槍でジャンプ」とその連作を、アクアティントと言う版画手法を使い27点残しています。作品は黒いインクの濃淡だけのシンプルなものですが、ピカソの他の作品とはまた違った味があります。
尚、巨匠作品の再構築や、仮面、画家とモデルと言った過去に取り上げたテーマも、継続してこの時期も描いていますが、そんな中で亡くなるまでの数年の特徴として言えるのが、作品の色づかいとタッチ。「腰掛けた男」「絵を描く画家 」で見られるように、この時期は以前にもましてキャンバスに占める色彩が明るくなり、バラ色、青、グレー、白が組み合わされ、輪郭は黒を使った太い線と素早いタッチで仕上げました。
最後に、ピカソが亡くなる前年に描かれた自画像を紹介します。
92歳と言う長寿、20世紀最大の芸術家、残した全作品の価値は数兆円と言われ、死後にようやく評価されたゴッホなどと違い、生前時に既にセレブ中のセレブで、歴史上最も成功したと言われる芸術家ピカソ。
それにも関わらず、なんとも寂しげな顔です。人間としては既に人生のまとめ、その境地に当然達しているはずの年齢91歳の老人が、到達したのがこの顔だったと言うのは、いかにもピカソらしい気もします。
数々の女性のスキャンダルを重ね、自由奔放に生きた人生も気が付いたら「あらら、もう終わるの?」だったのでしょうか…
充実のショップ
見学の後はショップを覗いてみて下さい。中は広く結構、充実していてお土産探しに良いかもしれません。尚、ショップは入場チケットを持っていなくても入れます。
【行き方解説】
行かれた方から「迷った、入口が分かり難かった」と言う声が何度もありましたので、行き方動画を作りました。参考にしてみて下さい。
まとめ&アドバイス
美術館を訪れた多くの人の感想は「ピカソは、まともな絵も描いていたんだ」「子供の頃にあれだけの絵を描けたのはやはり天才だ」。
20世紀最大の芸術家ピカソの評価として、まともな絵も描けるんだ、と言うのも可笑しな話ですが、それが本当のところではないでしょうか?
ピカソの特にキュービズム以降の絵を普通に理解するのは、まともな精神の持ち主では無理でしょう。例えば代表作の「アヴィニョンの娘たち」を見たマティスをはじめとする当時、同じ芸術運動をしていた天才画家にしてピカソの親友だった美術仲間でさえ理解不能で、それはあまりにも突飛過ぎた、それ故に彼らから怒りを招いたとまで言われます。
そんな難解な作品を私達素人が無理に理解しようとしても無理ですし、分かったふりをしたところで何の意味がありません。
ただ何度も見る、その都度考えながら見てみる、更に自身の人生経験を積み重ねいくうちにいつしか何かの拍子に分かる日が来るかも、と言う様なスタンスで見ていくのが無難なところです。そんなピカソを知り理解を深める意味で子供の頃から晩年までのピカソ作品の変化と成長を、時代系列で見れるこの美術館は非常にお勧め。もし、時間があれば是非一度訪れてみて下さい。
アドバイスとしては、季節と時間によっては非常に混むので予約必須になります。そのチケットの予約方法や行き方、注意点などは以下のリンク記事に詳しく解説していますので一読下さい。
また、ピカソにまつわる面白話を最後に付けましたのでそれもご覧ください。
【チケット予約の仕方】 ピカソ美術館のネット予約の仕方や行き方注意点を日本語で徹底解説しています。 |
ピカソの面白ばなし
【生まれたときは死産と思われた】 ピカソは大変な難産で生まれ、また非常に弱々しかったため助産婦は既に死産と思い込みピカソをテーブルに放置して、ピカソの母親の介護に当たっていました。このとき奇跡的に助けてくれたのが医師であった叔父。当時は葉巻を医師が当たり前に吸っており、この叔父がピカソの顔にその煙を吹きかけると、ピカソが反応したことにより一命をとりとめました。 |
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あ | |
【非常に長いクリスチャンネーム】 これはよく知られていることですが、ピカソは非常に長い名前で全部書くと |
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「パブロ・ディエーゴ・ホセー・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マーター・パトリシオ・クリート・ルイス・イ・ピカソ」となります。
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【最初の言葉は、えんぴつ】 画家になるために生まれてきた様なエピソードと言えるのに、スペイン語で鉛筆のことを”lápiz”といい、その短縮形の”piz”と言いますが、彼が生まれて最初に発した言葉がそれでした。また、芸術家であり美術の先生だった父親のルイスは、ピカソが7歳になったときから芸術の教育を施しましたが、13歳になる頃には既に追い越されたと父親自身が気付き、それ以降は自ら描くことは無かったと言われています。 |
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【ピカソは問題児だった】 ピカソは子供の頃から指導されることを好まず、先生から処罰を受けることも度々ありました。後年、その当時の事をピカソはこう語っています。。。「たしかに、問題児として真っ白な壁に囲まれたベンチが一つあるだけの処罰室によく送られたけど、実はそこが大好きだったんだ。なぜって、スケッチブックを持っていって手を止めることなく、延々と絵を描き続けることができたからさ。」 |
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【モナリザ盗難事件で逮捕される】 1911年にルーブル美術館からモナリザが盗まれたとき、警察はピカソの友人であり、詩人のギョーム・アポリネールを犯人として逮捕。 |
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その際に彼が容疑者としてピカソの名を上げたのがきっかけで、ピカソも逮捕されました。ただし、二人は無関係と言うことで一週間後に釈放されています。
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【キュビスムはただの立方体と言う批判から名づけられた】 1909年にピカソとフランスの画家のジョルジュ・ブラックと創始したキュビスムという名の由来は、フランスの批評家ルイ・ボークセル(Louis Vauxcelles)が名づけたもので、彼が「ピカソらの作品を、立方体(キューブ)以外の何でもない」と批判したところから来ています。 |
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【最も多作で、最も作品総額の高い画家】 絵と素描で13,500点、版画で100,000点、挿絵で34,000点にも及ぶ、最も多作な画家としてギネスブックに載っています。バルセロナの美術館で実際に、展示された絵の横の日付で確認してもらと良いですが、ラスメニーナスの連作は、なんと同じ日に描かれた5作品が横一列に並んでいます。また、2015年のサザビーズの競売で、「アルジェの女たち」は史上最高額の215億円の値がつきました。尚、彼の10万点を越える作品を全て合わせた総額は、一説には100兆円とも言われています。 |
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【プレイボーイ】 有名画家であったことでピカソは女性に困りませんでしたが、知られている妻や愛人だけでも数多くいて、まずピカソ23歳の時の最初の恋人フェルナンデ・オリヴィエから始まり、最後の妻となった27歳のジャクリーヌと79歳の時に結婚するまで、数十人にのぼります。 |
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【岡本太郎と親交があった】 岡本太郎がパリ滞在中ピカソ作品に出合い強い衝撃を受け、そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになるのですが、同時にピカソとも親交を持つようになりました。詳細は、テレビ番組の中の「私とピカソ」で自ら語っていますので是非ご覧ください。 |
実は発達障害
諸説はあるものの、ピカソは実はADHD(注意欠陥・多動性障害 )だったと言われています。このアスペルガー症候群と並ぶ発達障害の一種のADHDは症状として不注意(集中力がない)多動性(じっとしていられない)衝動性(考えずに行動してしまう)の3つの症状がみられ、具体的には以下の特徴があります。
・忘れ物が多い。 ・何かやりかけでもそのままほったらかしにする |
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・集中しづらい、でも自分がやりたいことや興味のあることに対しては集中しすぎて切り替えができない。
・片づけや整理整頓が苦手。
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では、幼少の頃の様子、また家族や友人などの証言による生前のピカソはと言うと。。。
ピカソにまつわる話でも書きましたが、ピカソは出生時、重度の仮死状態であったために、それがADHDの発症と関連していると言われています。また、これも既に述べましたが問題児だったピカソは小学校のころから落ち着きがなく、勝手に席を立ったり、授業中ひたすらノートに落書きしたりしていましたが、ただ絵を描くことに関してだけは超人的な集中力を発揮できました。
つまり、興味の無い事には全く見向きもせず、好きなことにはずば抜けた才能を発揮できたわけです。
そして、ピカソはいくらでもアイデアを思いつく人で、次々と新しい魅力的なアイデアが正に空から彼の頭上に降って来て、それ故に何かをやり遂げる前に次のことへ移ってしまうこともしばしばでした。また、ピカソは自由な生活スタイルを好み、それは因習にとらわれない自由奔放なもので、アトリエの中に画材やさまざまながらくたを置き、更に犬一匹、シャム猫3匹、サルなど珍しいペットを飼っていました。
更にピカソはいわゆる「捨てられない」人で、まったく整理整頓ができず部屋は無秩序。小物、ガラクタ、食べ物、服、芸術作品などがうず高く積み上げられていたと言い、それは現在で言うゴミ屋敷状態。実際、自分でも物がどこにあるかわからず、同居人に大事な手紙や本などを見つけてくれるように頼んだと言われ、彼のズボン服のポケットはに色々な物を中に詰込み過ぎて破れることもしばしばあったそうです。
ちなみに、ピカソの名言として「明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。今日できることは今日すべき。」と言うのがあります。世間では偉大な芸術家の素晴らしい言葉だと認識されていますが、実はそうした意味ではなくピカソはただ約束を守れないどうしようもない人で、本当のところは急ぎで頼まれた肖像画や挿絵をよく先延ばしにし、その際の言い訳に苦し紛れに言っていただけでした。
つまり彼にとって、たとえ大事な仕事でも自分が興味を持てないものなら「やり残して死んでも構わないこと」だったと言うわけです。
また、ピカソは絵のスタイルがころころ変わったことでも有名で、青の時代→ばら色の時代→アフリカ彫刻の時代→セザンヌ的キュビスムの時代→分析的キュビスムの時代→総合的キュビスムの時代→新古典主義の時代→シュルレアリスム→ゲルニカの時代→晩年の時代と、数年単位で変化し続けました。ピカソが次にどんな絵を描くかは誰にも予想不可能で、熱心なファンだったダグラス・クーパーでさえ、晩年の作品群にはついていけないと思ったほどでした。
こうしためまぐるしく変わるテーマ性は、ADHDの症状の一つ「新奇性探究」の特徴と言われています。簡単にいえば、飽きてしまうと集中できないため一箇所にとどまることはできず、常に新しいことを追い求め冒険し続けないと生きられないからです。また、ピカソは、一つのことで完璧を目指すより、適当に切り上げて、次々に新しいことに取り組むことのほうが、はるかに得意でした。
だからこそ、ピカソは生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家としてギネスブックに記されているのです。もしピカソが、一つの絵に完璧を求めて微修正を繰り返したり、構想に悩み続けたりするタイプだったら、こんなに多作にならなかったのは間違いありません。
これまでの述べた通り、ピカソはまるでわがままで無邪気な子どもそのものでした。ただ、その裏を返せば自己中心的で協調性がなかったので、友だちとなかなか親密になれませんでした。しかし、一方では一人でいることには耐えがたく、対人関係には積極的で常にいろんな人と会っていたそうです。
結局のところ人間関係やコミュニケーションが苦手だったわけではなく、積極的に人と関わりましたがピカソがあまりにも子どもっぽかったので、大人としての深い付き合いができなかったのでしょう。
前章で紹介した番組で岡本太郎さんも述べていますが「彼と話していると途中、話があっちいったりこっちいったり、まるで無邪気な子供がしゃべるそんな感じだった…」と言うのが、よくそれを表していると思います。
ただ、ピカソ自身も自分の子どもっぽさを意識していたものと思われ「子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」と述べており、晩年にはさらに子どもらしくなったピカソは「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と喜んでいたそうです。
子どもらしいことはピカソにとって恥ではなく、むしろとても意味のある勲章だったわけで、実際ADHDの人は子どもがそのまま大人になったような人だと形容されることがよくあります。
尚、あの地元カタルーニャのサルバドール・ダリも同じADHDであったと言われ、近年研究家の間で彼もそうではなかったのかと言われるのがガウディ。
時代こそ違いますがゴッホも実はアスペルガー症候群だったと言うこれらの事実は、天才芸術家たちを知る上で興味深いところです。
【最後に…】
お勧め度:18点/20点 |
住所 | Montcada 15-23 【地図】 |
URL | http://www.museupicasso.bcn.cat/en/ |
開館 | 11/1-4/30:10:00~19:00、5/2-10/31(火水日):9:00~20:00, (木金土):9:00~21:00 ※1/5:10:00~17:00、12/24, 12/31:10:00~14:00 休館日:月曜(祝日の場合も)、1/1、5/1、6/24、12/25 |
料金 | 常設展のみ 一般12€、18~25歳・65歳以上7€、18歳未満無料 常設展+特別展は展示により料金が変わります。 日本語オーディオガイド付きは上記料金に+5€ |
最寄駅 | 地下鉄 4 号線 ジャウマ・プリメJaume Iから徒歩5分 |
お得情報 | 毎月第一日曜日は終日、毎週木曜日の16時以降は無料、2/11, 5/18, 9/24は無料。そのチケットは4日前からWebで受付。6つの美術館に入ることができるArticket BCN アルティケット・バルセロナ(38€)も利用可能です。 |
記事は取材時点のものです。現在とは記事の内容が異なる場合もありますのでご了承ください。間違った情報、また有用新情報、分かり難い点や質問等ございましたら情報共有いたしますので、サイト内の「バルセロナ観光情報掲示板」に書き込んでください。 |
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@ | この記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパを旅し1997年よりバルセロナに在住。。 記事最終更新 2023.10.17 |
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