
スペインが生んだ20世紀最大の芸術家、パブロ・ピカソ。キュービズムに代表される難解な作品のイメージが強いピカソですが、バルセロナのピカソ美術館では、幼少期から青年期、そして晩年に至るまでの作品の変化を時代順に見ることができます。
天才ピカソが最初から抽象的な絵を描いていたわけではなく、若い頃には驚くほど正統派で写実的な作品を描いていたことにも気付かされるでしょう。ここでは、ピカソ美術館の見どころ、効率の良い回り方、そして鑑賞前に知っておきたいポイントを詳しく解説していきます。
目次
バルセロナとピカソ
スペインが生んだ偉大な芸術家パブロ・ピカソ。1881年にアンダルシア地方のマラガで生まれたピカソは、生涯で1万点を超える油絵やデッサン、10万点にも及ぶ版画、さらに数百点の彫刻や陶芸作品を残した非常に多作な芸術家として知られています。その制作数はギネス世界記録にも登録されているほどです。
また、従来の遠近法にとらわれず、複数の視点から見た対象を一つの画面に再構成する「キュービズム」の創始者として、美術史に大きな足跡を残しました。
そんなピカソが1895年から1904年まで、多感な10代後半から20代前半を過ごしたのがバルセロナです。
ここで紹介するピカソ美術館(Museu Picasso)は、ゴシック地区の東側にあるモンカダ通りに位置し、13〜14世紀に建てられた貴族の館を含む5つの歴史的建造物を利用して1963年に開館しました。
美術館のあるモンカダ通りには、中世の面影を残す貴族の邸宅が今も立ち並び、バルセロナ旧市街の歴史的な雰囲気を色濃く感じることができます。館内には、ピカソが幼少期から青年期にかけて制作した作品を中心に4,000点以上が収蔵されており、天才画家がどのように成長し、後の革新的な作風へと至ったのかを時代順にたどることができます。
パブロ・ピカソ年表
スペイン南部アンダルシア地方のマラガで生まれたピカソですが、実は生涯の大半をスペイン国外で過ごしました。
ピカソは1895年から1904年までの約9年間をバルセロナで過ごし、その後はパリを中心にフランスへ活動の拠点を移します。そして1973年に92歳で亡くなるまで、その人生のほとんどをフランスで送りました。
そのため、ピカソはスペインを代表する画家として知られる一方で、芸術家として名声を築いた場所は主にフランスであったとも言えます。
| 1881年 | 10月25日、南スペイン・マラガで絵の教師の子として生まれる。 |
| 1892年 | ラ・コルーニャにある父の教える美術学校に入学し、美術の基礎を学ぶ。 |
| 1896年 | バルセロナの美術学校に入学。 |
| 1897年 | 「科学と慈愛」がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞。*ここバルセロナに展示 |
| 同年 | 「科学と慈愛」がマラガの地方展にて金賞を受賞。 |
| 同年 | 秋、マドリードのサン・フェルナンド王立アカデミーに入学。のち中退。 |
| 1899年 | バルセロナに居を構え、絵に専念する。 |
| 1900年 | 初めてパリを訪問。バルセロナとパリを行き来する。 |
| 1901~1904年 | 【青の時代】親友カサジェマスの自殺にショックを受け、青く暗い色で売春婦や乞食などを描く。 |
| 1904年 | パリ・モンマルトルに住みはじめる。 |
| 1904~1907年 | 【バラ色の時代】恋人フェルナンド・オリヴィエと知り合い、明るい色調でサーカスの芸人などを描く。 |
| 1907~08年 | 【アフリカ彫刻の時代】アフリカ彫刻の影響を強く受ける。 |
| 1909~1912年 | 【分析的キュビスムの時代】ジョルジュ・ブラックと二人で立体派=キュビスムを追究。 |
| 1912~1918年 | 【総合的キュビスムの時代】コラージュ技法を開発。 |
| 1918~1925年 | 【新古典主義の時代】古典的写実に向かって量感のある母子像を描く。 |
| 1925年~ | シュールレアリズムの影響を受け、スペインの闘牛図を描く。 |
| 1937年 | ナチスによるゲルニカの町の爆撃に憤って世紀の大作「ゲルニカ」をパリ万国博覧会にて発表。 |
| 1945年~ | ムルロー工房にてリトグラフィーを本格的に取り組む。 |
| 1950年 | 過去の巨匠の作品をアレンジし、新たな作品を描く。 |
| 1968年 | 47点に及ぶエロティックな銅版画を制作。 |
| 1973年 | 4月8日、南仏ムージャンの自宅にて92歳の生涯を閉じる。 |
代表的な作品
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ゲルニカ(Guernica) 1937作
ピカソの代表作として最もよく知られているのが『ゲルニカ(Guernica)』です。日本でも学校の教科書などで取り上げられることが多く、ピカソの名前を知らなくても、この作品を見たことがあるという人は少なくありません。
この作品は、スペイン内戦中の1937年にドイツ軍によるゲルニカ爆撃を題材として描かれました。ゲルニカはスペイン北部バスク地方の町で、この無差別爆撃によって多くの市民が犠牲となりました。
『ゲルニカ』は同年に開催されたパリ万国博覧会のスペイン館で公開されましたが、当初から現在のような高い評価を受けていたわけではありません。しかし、その後は戦争の悲惨さを訴える作品として世界的に知られるようになり、反戦や抵抗の象徴として20世紀を代表する絵画の一つに数えられるようになりました。
現在、『ゲルニカ』はマドリードにある 国立ソフィア王妃芸術センター に展示されており、スペインで最も多くの人が鑑賞する近現代美術作品の一つとなっています。

アビニヨンの娘たち(Les demoiselles d’Avignon)1907年作
『ゲルニカ』と並ぶピカソの代表作として知られているのがこの作品です。
1907年に制作されたこの作品には、バルセロナ旧市街に実在した売春宿の娼婦たちが描かれており、タイトルの「アヴィニョン」とはフランスの都市ではなく、当時売春宿があったバルセロナのアビニヨン通り(Carrer d’Avinyó)を指しています。
従来の遠近法や人体表現を大胆に崩したこの作品は、後にキュービズム誕生へとつながる画期的な作品として美術史上非常に高く評価されています。
また、ピカソの愛人であり写真家でもあったドラ・マールをモデルにした『泣く女(The Weeping Woman)』(1937年)も有名です。この作品は『ゲルニカ』と同じ年に制作され、戦争による苦しみや悲しみを象徴する作品とされています。
ピカソは同じテーマを繰り返し描くことが多く、『泣く女』をモチーフにした作品だけでも100点以上のバリエーションが存在すると言われています。代表作の一つは現在、 ニューヨーク近代美術館 に収蔵されています。
時代とともに変化していく作風
20世紀を代表する画家と称されるピカソですが、その作品を見て誰もが「これはすごい」と感動するかというと、必ずしもそうではありません。
特に晩年の作品やキュービズム時代の絵を見ると、「このくらいなら子供でも描けるのでは?」と感じる人もいるでしょう。実際、美術にあまり興味のない人ほど、そのような印象を持つかもしれません。
しかし、あまり知られていないことですが、ピカソは幼い頃から卓越した描写力を持っていました。少年時代に描いた作品の中には、写真のように精密で写実的な絵も数多く残されています。つまり、ピカソは「上手に描けなかったから単純な絵を描いた」のではなく、「完璧に描ける人が、あえて別の表現を探した」画家だったのです。
そして、その探求の過程で作風は大きく変化していきます。ここでは、ピカソがどのように絵を描き始め、どのような変遷を経て私たちがよく知る独特なスタイルへたどり着いたのかを、時代ごとに見ていきたいと思います。

【青の時代】 1901-1904
20歳前後のピカソが描いた作品には、青色を基調とした暗く沈んだ雰囲気のものが数多く見られます。この時期は一般に「青の時代(Blue Period)」と呼ばれています。
なぜピカソがこのような作風になったのかについては諸説ありますが、そのきっかけの一つとして1901年2月に親友カルロス・カサジェマスが恋愛問題を苦に拳銃自殺した事件が挙げられています。
この時代の作品には、貧困や孤独、病気、老い、死といった重いテーマが多く描かれており、画面全体にもどこか物悲しい空気が漂っています。
青の時代を代表する作品として知られるのが『人生(La Vie)』です。この作品には親友カサジェマスと恋人ジェルメーヌを思わせる人物が描かれており、喪失感や人生の苦悩が表現されていると考えられています。
その他の代表作としては、衰弱した老人がギターを抱える姿を描いた『老いたギター弾き(The Old Guitarist)』、海辺で身を寄せ合う貧しい家族を描いた『悲劇(La Tragédie)』、そして『盲人の食事(The Blind Man’s Meal)』などがあります。
どの作品にも共通しているのは、社会の片隅で生きる人々への温かな眼差しと、人生の孤独や悲しみに対する深い共感です。
ピカソが二十歳を過ぎた頃の薄暗く陰気な青を主に用いた作品が続いたこの頃が「青の時代」と呼ばれます。一説には1901年2月に親友カルロス・カサジェマス(Carlos Casagemas)が、恋愛沙汰でピストル自殺を図った事件に影響を受けたとも言われます。
この時代を象徴する代表作は、親友カサジェマスと恋人のジェルメーヌが抱き合う姿が描写された「人生 La Vie(ラ・ビィ)」。また、その他にこの時代の代表作には、ギターを弾く老人を描いた「老いたギター弾き」、暗い表情を浮かべ海辺で身を寄せ合う家族を描いた「悲劇(海辺の貧しい家族」「盲人の食事」などがあります。

【ばら色の時代】 1904–1906
暗く沈んだ「青の時代」の後、ピカソの作風は大きく変化します。
1904年、ピカソは後に恋人となるフェルナンド・オリヴィエとパリで同棲生活を始めました。彼女はピカソにフランス語を教え、芸術活動に専念できるよう精神的な支えとなった人物です。
この頃から作品に見られた悲壮感や孤独感は徐々に薄れ、青色に代わってピンクやオレンジ、赤褐色などの温かみのある色彩が多く用いられるようになります。そのため、この時期は「ばら色の時代(Rose Period)」と呼ばれています。
ピカソはフェルナンドの裸像や身近な人々の肖像画をはじめ、旅芸人やサーカスの団員、道化師などを好んで描きました。作品全体には穏やかで優しい雰囲気が漂う一方で、どこか哀愁も感じられるのが特徴です。
この時代を代表する作品として『パイプを持つ少年(Garçon à la pipe)』(1905年)があり、ばら色の時代を象徴する作品の一つとして知られています。

【アフリカ彫刻の時代】 1907–1909
1907年頃のパリでは、アフリカ各地から持ち込まれた仮面や彫刻が芸術家たちの間で大きな注目を集めていました。写実性を重視する西洋美術とは異なる、単純化された力強い造形や大胆な表現は、多くの前衛芸術家に強い衝撃を与えます。
ピカソもその一人でした。彼はアフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を受け、人間の姿を従来とは異なる方法で表現しようと試みます。
この時代を象徴する作品が、後にキュビズムの出発点とされる『アヴィニョンの娘たち(Les Demoiselles d’Avignon)』です。作品に描かれた女性たちの顔には、アフリカの仮面を思わせる特徴的な表現を見ることができます。
この時期に生まれた「対象を分解し、再構成して描く」という発想は、やがてピカソとジョルジュ・ブラックによって発展させられ、本格的なキュビズムへとつながっていきます。

【キュビスムの時代 】 1909-1912
ピカソの名前を聞いて多くの人が思い浮かべる独特な作風が、このキュビズムの時代です。
それまでの西洋絵画は、一つの視点から見た世界を画面上に再現することを重視していました。しかしピカソは、対象を複数の角度から同時に捉え、それらを一つの画面の中で再構成するという全く新しい表現方法を生み出します。
初期のキュビズムは、特にポール・セザンヌの影響を受けており、人物や静物を円筒や円錐、球体といった単純な形へ還元しようとする試みが見られます。その後、ピカソはジョルジュ・ブラックとともにキュビズムを発展させ、対象を細かな面へ分解して描く「分析的キュビズム」の時代へ進みます。この頃の作品は何が描かれているのか一見すると分かりにくく、鑑賞者にとっても難解なものとなりました。
さらに1912年頃からは、新聞紙や壁紙など実際の素材を画面に貼り付けるコラージュ技法を取り入れた「総合的キュビズム」が始まります。これは美術史上初めて本格的にコラージュを芸術表現へ取り入れた試みとして知られています。
代表作の一つに『マンドリンを持つ少女(Girl with a Mandolin)』(1910年)があり、分析的キュビズムを理解する上で重要な作品とされています。

【新古典主義の時代】 1918-1925
キュビズムによって美術界に革命を起こしたピカソですが、その後も同じ作風を続けたわけではありません。
第一次世界大戦中の1917年、ロシア人バレリーナのオルガ・コクローヴァと出会ったピカソは、翌1918年に結婚します。そしてこの頃から、それまでのキュビズムとは大きく異なる古典的で写実的な作品を数多く描くようになりました。
その変化を象徴する作品の一つが『安楽椅子のオルガ(Olga in an Armchair)』です。背景にはキュビズムの名残を見ることができますが、オルガの顔や身体は柔らかな曲線を用いて写実的に描かれており、それまでの作品との違いは一目瞭然です。
また、この時代には古代ギリシャやローマの彫刻を思わせるような、堂々とした人物像が多く描かれました。特に母子を題材とした作品では、穏やかで安定した家庭生活を反映しているかのような優しい雰囲気が感じられます。
代表作の一つ『母と子(Mother and Child)』(1921年)には、この時代の特徴である力強さと古典的な美しさがよく表れています。
キュビズムを生み出した画家が、再び伝統的な表現へ戻ったことは、多くの人にとって意外に思えるかもしれません。しかし、ピカソは一つの様式に留まることなく、常に新しい表現を模索し続けた画家だったのです。

【シュルレアリスムの時代】 1925-1936
1920年代半ばになると、ピカソは再び新たな表現を模索し始めます。
当時のパリでは、夢や無意識の世界を表現しようとする「シュルレアリスム(超現実主義)」が芸術界に大きな影響を与えており、ピカソもまたその思想や表現手法から強い刺激を受けました。
この頃の作品では、それまでの写実的な人体表現から大きく離れ、人物の顔や身体が大胆に変形されるようになります。手足が不自然に引き伸ばされたり、顔のパーツが歪められたりするなど、現実には存在しない形態が数多く描かれました。
また、妻オルガとの不和や私生活の混乱も重なり、作品には不安や緊張感、激しい感情が色濃く表れるようになります。そのため、この時代の作品には怪物のような人物像や、どこか不気味な雰囲気を持つモチーフが多く登場します。
この時代を代表する作品の一つが『三人の踊り子(Three Dancers)』(1925年)です。画面の中で踊る3人の人物は大きく変形され、まるで叫び声を上げているかのような激しい表情を見せています。この作品は、後の『ゲルニカ』にもつながるピカソの新たな表現の出発点として、美術史上重要な作品とされています。
こうしてピカソは、キュビズムや新古典主義とも異なる独自の表現世界を築き上げていきました。そして、この時代に培われた激しい感情表現や歪められた人体描写は、後に代表作『ゲルニカ』へと結実していくことになります。
さらに詳しくは、この後に紹介するバルセロナ・ピカソ美術館所蔵作品の解説の中で見ていきましょう。
バルセロナピカソ美術館
概要
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| 美術館は1963年、貴族のバランゲー・ダギラル邸跡に作られました | |
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| 狭い通り | 貴族の邸に似つかぬピカソ作品 |
バルセロナ・ピカソ美術館は1963年に開館しました。美術館は中世の面影が色濃く残るモンカダ通りにあり、13〜14世紀に建てられた貴族の館を利用しています。
現在は5つの歴史的建造物から構成されていますが、その始まりとなったのがバロン・デ・カステレット宮殿(旧バランゲー・ダギラル邸)でした。
この美術館が誕生した背景には、ピカソが青春時代をバルセロナで過ごしたという縁だけでなく、幼い頃からの親友であり秘書も務めたジャウマ・サバルテスの存在がありました。バルセロナ生まれのサバルテスは、長年にわたりバルセロナ市と交渉を重ね、ピカソ作品を収蔵する美術館の設立に尽力します。その努力が実を結び、1963年にピカソ美術館が開館しました。
なお、当時のスペインはフランコ独裁政権下にあり、反フランコの立場を取っていたピカソ本人の名前を前面に出すことが難しかったため、開館当初は「サバルテス・コレクション」という名称でスタートしています。
その後、美術館のコレクションは徐々に充実していきます。特に、同じスペインを代表する芸術家である サルバドール・ダリ が、自身の所有していた約30点のピカソ作品を寄贈したことは大きな出来事でした。
現在でも『ゲルニカ』や『アヴィニョンの娘たち』のような世界的名作は所蔵していませんが、その代わりに幼少期から青年期にかけての作品や習作が数多く収蔵されており、ピカソという芸術家がどのように成長し、独自の表現へと到達したのかをたどることができる世界でも貴重な美術館となっています。。

【ジャウマ・サバルテス】
ジャウマ・サバルテスはバルセロナ生まれの詩人・作家で、ピカソとは少年時代からの親友でした。二人は1890年代のバルセロナで知り合い、生涯にわたって交流を続けます。
1935年からはピカソの秘書として働くようになり、公私にわたって彼を支える最も信頼された人物の一人となりました。また、後にバルセロナ・ピカソ美術館の設立に尽力した功労者としても知られています。
美術館内には、ピカソが描いたサバルテスの肖像画が数多く展示されており、二人の長年にわたる友情の深さを感じることができます。ちなみに、サバルテスの親族には、カタルーニャを代表する芸術家として世界的に知られる ジョアン・ミロ がいました。20世紀スペイン美術を代表する二人の巨匠、ピカソとミロを結び付ける人物でもあったのです。
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オープンにあたっては、サバルテス自身が所有していたピカソのコレクションを全て美術館に寄贈。オープン初期は、それらの作品を中心に美術館の展示の全体構成を行いました。 |
| その後、1968年に亡くなったサルバテスに敬意を表し「ラスメニーナス」の連作をピカソ自らが寄付。また1970には、ピカソのバルセロナに住む家族の家に保管されていた作品921点も寄付されます。 | |
所蔵品の特徴

日本人がピカソと聞いてまず思い浮かべるのは、『ゲルニカ』に代表されるキュビズム時代の作品ではないでしょうか。しかし、バルセロナ・ピカソ美術館の魅力は、そうした有名作品を鑑賞することではありません。
館内には4,000点を超える作品が収蔵されていますが、『ゲルニカ』や『アヴィニョンの娘たち』のような世界的な代表作は所蔵されていません。そのため、マドリードやニューヨークの美術館のように「名画を見る」ことを目的に訪れると、少し印象が異なるかもしれません。
一方で、この美術館には少年時代の習作やデッサン、青春時代の作品、さらには「青の時代」に至るまでの貴重な作品が数多く残されています。
そして何よりの特徴は、それらの作品が年代順に分かりやすく展示されていることです。幼い頃から卓越した才能を発揮していた少年ピカソが、どのような経験を経て独自の芸術表現へたどり着いたのか。その成長の軌跡を順を追ってたどることができます。
世界的な名画を鑑賞するための美術館というよりも、一人の天才画家が誕生し成長していく過程を学ぶための美術館。それがバルセロナ・ピカソ美術館最大の魅力と言えるでしょう。
館内の見学ルート


館内の作品は、バルセロナでの修業時代 → 青の時代 → ばら色の時代 → キュビズムの時代 → 晩年という流れで年代順に展示されています。
そのため、特別な予備知識がなくても、館内に示された順路に沿って進んでいけば、ピカソの成長と作風の変化を自然にたどることができます。
見学時間の目安は約1時間です。ただし、日本語オーディオガイドを利用しながら作品をじっくり鑑賞する場合は、さらに時間に余裕を持っておくと良いでしょう。また、季節ごとに内容が変わる企画展も開催されています。展示内容によって多少異なりますが、通常は15〜20分ほどあれば一通り見学できます。
それでは、ここからはピカソ美術館が所蔵する作品の中でも特に見どころとされる作品を紹介していきます。
世界的な名画を集めた美術館ではありませんが、一人の天才画家がどのように成長し、独自の表現へたどり着いたのかを知ることができるのが、この美術館最大の魅力です。ピカソのルーツをたどりながら、その変化の過程を見ていきましょう。
少年時代

15歳の時に描いた『初聖体拝受(La Primera Comunión)』や、16歳で数々の賞を受賞した『科学と慈愛(Ciencia y Caridad)』(画像上)は、伝統的な写実技法によって描かれた代表作です。
私たちが一般にイメージするキュビズム以降のピカソ作品とは大きく異なり、誰が見ても「絵がうまい」と感じられる作品ばかりです。ピカソ美術館を初めて訪れる人の多くが、この時代の作品を見て驚かされることでしょう。
少年時代のピカソは、美術学校での課題制作だけでなく、家族や親戚、知人の肖像画、さらには風景画なども数多く描いていました。中でも『ベレー帽の男』は特に印象的な作品です。モデルとなった男性の肌の質感や白髪混じりの髭、そして鋭い眼差しまでが見事に描写されており、田舎の労働者らしい寡黙で力強い人柄までもが伝わってくるようです。
これを描いたのは、まだ14歳の少年でした。ちなみに、美術教師でもあった父ホセ・ルイス・ルイス・ブラスコは、息子の才能の伸びに大きな衝撃を受けたと言われています。伝承によれば、ピカソが14歳頃に描いた作品を見た父は、自らの絵筆と絵の具を息子に譲り、「もはや自分は息子に及ばない」と認めたとされています。
このエピソードの真偽は定かではありませんが、少年時代の作品を目の前にすると、多くの人が「もしこれが本当に14〜16歳の作品なら驚くしかない」と感じるはずです。
【その他この時代の作品】



バルセロナ前衛運動と「4匹の猫」

19世紀末のバルセロナでは、建築、絵画、文学など様々な芸術分野で、伝統的な価値観からの脱却を目指す「モデルニスモ」と呼ばれる芸術運動が盛り上がりを見せていました。
その中心地の一つとなっていたのが、現在も営業を続けるカフェレストラン『Els Quatre Gats(4匹の猫)』です。パリの芸術家たちが集うカフェを手本として1897年に開かれたこの店には、画家、建築家、作家、詩人などが集まり、当時のカタルーニャ前衛芸術の発信地となっていました。
その頃のピカソは、マドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに在籍していましたが、猩紅熱を患ったことをきっかけに学業を中断し、カタルーニャの田舎で療養生活を送ります。その静かな時間の中で彼が気付いたのは、型にはまった美術教育に自分が満足できていなかったことでした。
やがてピカソはスペイン屈指の美術エリート養成機関を離れ、17歳にして将来も定まらない若い芸術家となります。そんな彼の心を強く惹きつけたのが『Els Quatre Gats』でした。
店に集まる前衛芸術家たちとの交流や自由な議論、そしてボヘミアン的な雰囲気は、若きピカソに大きな刺激を与えます。彼はたちまち常連の一人となり、この店で自身初の個展を開くまでになりました。
館内には、当時ピカソが制作した店のメニューやポスターのデザインを見ることができます。後に20世紀最大の芸術家と呼ばれることになる青年ピカソの原点が、ここに残されているのです。
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【Els 4Gats】 (クアトロ ガッツ) バルセロナ下町、ピカソが通い詰めた、パリの雰囲気ただようカフェレストランは…. |
【その他この時代の作品】


それまでのピカソは、家族や親戚、知人などをモデルにした写実的な肖像画を数多く描いていました。しかし『Els Quatre Gats』に出入りするようになると、その題材や表現は大きく変化していきます。
彼が描くようになったのは、日頃通っていたバルの常連客や芸術家仲間、さらには売春宿で出会った人々でした。例えば『エル・ディバン(El Diván)』には、売春婦と客、そしてその様子を見守る売春宿の主人が描かれています。また、エル・グレコの影響を感じさせる肖像画や、白髪のかつらを被ったユーモラスな自画像なども残されており、その作風は少年時代の写実画とは大きく異なります。
これらの作品からは、単に絵の技術を磨く学生ではなく、新しい表現を模索する若き芸術家へと変わりつつあったピカソの姿を感じ取ることができます。
後の「青の時代」や前衛的な作風につながる萌芽は、すでにこの頃の作品の中に見ることができるのです。
パリへ2度の訪問

19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリは、世界中の画家、詩人、作家、音楽家、ダンサーたちが集まる芸術の都でした。若きピカソもまた、バルセロナの『Els Quatre Gats』に集う年上の芸術家たちから、パリという街の魅力を繰り返し聞かされていました。そして、いつか自分もその街を見てみたいと強く願うようになります。
その機会は1900年に訪れました。同年に開催されたパリ万国博覧会に合わせて行われた展覧会にピカソの作品が出品され、19歳の彼は初めてパリの地を踏みます。
約2か月の滞在中、ピカソはモンマルトルのカフェやキャバレー、ダンスホールなどを訪れ、多くの芸術家や娼婦、踊り子たちと交流しました。
それまでのスペインでは見たことのない自由な空気、人々の率直な愛情表現、昼夜を問わず続く芸術談義。パリの活気と開放的な雰囲気は、若きピカソに大きな衝撃を与えます。当時のスペインは現在よりもはるかに保守的な社会でした。そのため、芸術や思想、人間関係において自由な空気に満ちたパリは、ピカソにとってまるで別世界のように映ったことでしょう。
その後、一度バルセロナへ戻ったピカソでしたが、パリへの憧れを断ち切ることはできませんでした。そして翌1901年、再びパリへ渡り、本格的に芸術家としての歩みを進めていくことになります。
2度目のパリ

最初のパリ訪問から数か月後、ピカソは再びパリへ向かいます。
きっかけは、同じスペイン出身の画家フランシスコ・イトゥリーノとの共同展覧会でした。若きピカソはこの機会に大きな期待を寄せ、闘牛や競馬、花束、裸婦など、当時のパリで好まれていた題材を中心に数多くの油彩画やデッサンを制作します。
その中の一つが『マルゴット(Margot)』です。この作品には、ピカソが強い影響を受けていたゴッホを思わせる鮮やかな色彩や筆遣いを見ることができます。黄色や赤、緑などの原色を用いた背景の中に、一人の娼婦が描かれており、その華やかな装いとは対照的に、どこか物憂げな表情が印象的です。
当時のピカソはまだ作風を模索している最中でしたが、この作品からは後の「青の時代」へとつながる人間への関心や感情表現の芽生えを見ることができます。しかし、展覧会は必ずしも商業的な成功を収めたわけではありませんでした。作品の評価は得られたものの売上は伸びず、ピカソの経済状況は依然として厳しいままでした。
そして、この頃から彼の作品には次第に明るい色彩が減り、孤独や貧困、人間の苦悩へと目を向けた表現が増えていきます。やがてそれは、ピカソの「青の時代」へとつながっていくことになります。
青と薔薇の時代


2度目のパリ滞在が始まって数か月。憧れだったパリでの生活にも慣れ、最初の興奮が薄れ始めた頃、ピカソは大きな衝撃を受けます。親友カルロス・カサジェマスの自殺でした。
さらに、展覧会を開いたにもかかわらず思うような収入は得られず、生活は決して楽ではありませんでした。若き芸術家として成功を夢見てパリへやって来たものの、現実は厳しいものだったのです。こうした精神的な苦悩は、やがて作品にも色濃く表れるようになります。
それまで『マルゴット』に見られたような黄色や赤、緑などの鮮やかな色彩は次第に姿を消し、代わって青を基調とした暗く沈んだ色調の作品が増えていきました。貧しい人々、病人、盲人、孤独な老人たちを描いた作品が多くなったのもこの頃です。
こうして始まったのが、後に「青の時代(Blue Period)」と呼ばれる時期でした。
しかし、その後パリでの生活が安定し、新たな恋人フェルナンド・オリヴィエとの出会いによって心境にも変化が訪れます。作品の色彩は再び明るさを取り戻し、ピンクやオレンジを基調とした温かみのある表現へと移り変わっていきました。
これが「ばら色の時代(Rose Period)」です。
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この時代の初期作品としては「頭巾を付けた女」をはじめとする囚人達を描いたシリーズが有名。 |
| パリの北部にある女子刑務所(サンザラール刑務所)は当時数千人を収容していたと言いますが、ピカソはここを何度も制作の為に訪れます。
ただしこれらの作品は、犯罪者と言うテーマ、陰鬱な青色の寒色系トーン、更に舞台設定の欠如と言う事で当然ながら絵が全く売れず、これが自身のパリで困窮生活に決定的なとどめを刺すことになります。 |
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パリ3度目の訪問
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| 質素な食事 1904 | カナルス婦人 1905 |
その後、一旦バルセロナへ戻っていたピカソですが、1904年に再びパリへ向かいます。これまでの訪問と違ったのは、今度はパリに定住する決意を固めていたことでした。
ピカソがアトリエを構えたのは、モンマルトルにあった「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」と呼ばれるアパートです。ここには当時の若い画家や作家、詩人たちが数多く住んでおり、日本で例えるなら漫画家たちが集まった「トキワ荘」のような存在でした。
この場所でピカソは、多くの芸術家や知識人と交流しながら刺激を受けます。また、モデルのフェルナンド・オリヴィエと恋愛関係になったことで生活も安定し、それまで作品に漂っていた苦悩や不安は徐々に薄れていきました。
やがて作品の色彩にも変化が現れます。青を基調とした暗い色調から、ピンクやオレンジなどの温かみのある色彩が増え始め、後に「ばら色の時代(Rose Period)」と呼ばれる時期へ移行していきました。
ただし、「青の時代」と「ばら色の時代」の境界はそれほど明確ではありません。実際、この二つはかつて同じ時代として扱われることもありました。
例えば『カナルス夫人』には後のばら色の時代につながる明るさを見ることができますが、『質素な食事』などは依然として青の時代の雰囲気を色濃く残しています。そのため、美術史上では区別されているものの、実際に作品を見比べてみると両者の違いは意外と曖昧です。
ところで、この「洗濯船」でピカソが知り合った人物の中には、後にシュルレアリスムの先駆者とも呼ばれる詩人ギョーム・アポリネールがいました。そして二人は1911年、ルーブル美術館から『モナ・リザ』が盗まれた際、思いもよらぬ形で事件に巻き込まれることになります。
→ 「ピカソとモナ・リザ盗難事件」の記事はこちら
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【洗濯船とは】 パリ18区のモンマルトル地区にあったアパートのニックネームで洗濯船という名前は建物が暗くて汚く、その外観はセーヌ川沿いに浮かぶ船を人々に想起させたことによります。 |
| 当時、パリへ上京してきたさまざまな外国人文化人が洗濯船を住居にしたり、また会合の場所として利用しそんな中でもピカソが入居して、芸術家たちの注目を集め、多くの貧しい芸術家が入居するようになりました。
また1904年以後は、洗濯船は非公式のクラブのような場所になり、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、マリー・ローランサンなど多くの芸術家、画商などが集まります。 |
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キュービズム

ルネサンス以降のヨーロッパ絵画では、遠近法を用いて目に見える世界をできるだけ正確に再現することが理想とされてきました。しかし19世紀になると写真が発明され、「現実を忠実に写し取る」という役割は、画家だけのものではなくなります。
そんな中、多くの芸術家たちが「絵画にしかできない表現とは何か」を模索し始めました。その一人だったピカソは、対象を一つの視点からではなく、様々な角度から同時に見て、それらを一枚の画面の中で再構成するという全く新しい表現方法を生み出します。これが「キュビズム(Cubism)」です。
その出発点となった作品が、1907年に完成した『アヴィニョンの娘たち(Les Demoiselles d’Avignon)』でした。制作にあたっては数多くの習作やデッサンが描かれたと言われており、ピカソがそれまでの絵画の常識を打ち破ろうとしていたことがうかがえます。
その後、ピカソはジョルジュ・ブラックとともにキュビズムを発展させ、西洋美術の歴史を大きく変えることになります。そして『アヴィニョンの娘たち』と、後年の代表作『ゲルニカ』によって、20世紀を代表する芸術家としての地位を確立しました。
ただし、1907年から1917年頃にかけての本格的なキュビズム時代の代表作は、残念ながらバルセロナ・ピカソ美術館にはほとんど所蔵されていません。その中で美術館が比較的重要な作品として紹介しているのが、『贈り物』『フランキータ・スアレス』『コロンブス大通り』などの作品です。
これらの作品からは、ピカソがキュビズムという新たな表現へ向かって試行錯誤していた様子を垣間見ることができます。
【その他の作品】

古典からピカソ主義へ

決定的な転機となった『アヴィニョンの娘たち』以降も、ピカソはジョルジュ・ブラックとともにキュビズムを発展させ、分析的キュビズム、そして総合的キュビズムへとその表現を進化させていきました。
しかし、その最中の1914年、第一次世界大戦が勃発します。ヨーロッパ全土を巻き込んだ4年に及ぶ戦争は、民間人を含め数多くの犠牲者を生み出し、人々の価値観を大きく揺るがしました。
戦後の芸術界では、それまでのように新しさや前衛性だけを追い求めるのではなく、古代ギリシャやローマ、ルネサンスに見られるような普遍的な美しさや秩序を見直そうとする動きが広がります。美術史では「秩序への回帰(Retour à l’ordre)」と呼ばれる潮流です。
ピカソもまた、その影響を受けた芸術家の一人でした。戦後の彼はキュビズムを完全に捨てたわけではありませんが、それまでの幾何学的な表現から距離を置き、古典的で写実的な人物像を数多く描くようになります。
バルセロナ・ピカソ美術館には、この時代を代表する作品として『アルルカン』や『マンティーリャをつけた女』が展示されています。これらの作品を見ると、同じ画家が描いたとは思えないほどキュビズム時代とは異なる作風に驚かされます。しかし、それこそが一つの様式に留まることを嫌ったピカソらしさでもありました。
また、好奇心旺盛だったピカソは…

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| ミノタウロマキア1935 |
シュルレアリスム(超現実主義)と言えば、一般には サルバドール・ダリ を思い浮かべる人が多いかもしれません。その運動を理論的に主導した人物が、フランスの詩人 アンドレ・ブルトン でした。
ピカソはブルトンと交流を持ち、1925年にパリで開催された最初のシュルレアリスム展にも作品を出展しています。しかし、ブルトンのグループに正式参加することはなく、あくまで独自の立場を保ちながらシュルレアリスムの表現を作品の中へ取り入れていきました。
その代表例が、バルセロナ・ピカソ美術館に所蔵されている銅版画『ミノタウロマキア(Minotauromachia)』(1935年)です。
作品の中心には、ギリシャ神話に登場する半人半牛の怪物ミノタウロスが描かれています。ピカソはこのミノタウロスを単なる神話上の存在としてではなく、人間の暴力性や破壊衝動、そして理性と本能の葛藤を象徴する存在として繰り返し作品に登場させました。
また、『ミノタウロマキア』には傷ついた馬、光を掲げる少女、苦悩する人物たちなど、後の『ゲルニカ』を連想させる要素が数多く見られます。そのため美術史家の間では、この作品を『ゲルニカ』の直接的な前身、あるいは構想の原型と考える人も少なくありません。
『ゲルニカ』が突然生まれた傑作ではなく、その背景には長年にわたるピカソの試行錯誤があったことを、この作品は教えてくれます。
戦争と孤立の時代

1930年代後半になると、ヨーロッパは再び戦争の時代へと突入していきます。
スペインでは1936年に内戦が始まり、1939年にはフランシスコ・フランコ率いる独裁政権が成立しました。共和派を支持していたピカソは新政権と対立し、それ以降、二度と母国スペインの地を踏むことはありませんでした。
同じ1939年には第二次世界大戦が勃発。そして翌1940年、パリはドイツ軍によって占領されます。多くの芸術家や知識人が国外へ亡命する中、ピカソはパリに残ることを選びました。
戦時中の彼はアトリエにこもりながら創作活動を続けます。その作品には、それまでの写実表現やキュビズム、シュルレアリスムの要素が複雑に融合し、独特の人物像や静物画が数多く描かれるようになりました。
現在、多くの人が「ピカソらしい」と感じる大胆に変形された人物像や、力強く単純化された造形の多くは、この頃に完成されたものです。なお、ナチス・ドイツは『ゲルニカ』をはじめとする前衛芸術を「退廃芸術」として敵視していました。しかし、世界的な名声を得ていたピカソ本人に対しては直接的な迫害は行われませんでした。
有名な逸話として、ドイツ軍将校がピカソのアトリエで『ゲルニカ』の写真を見て「これを描いたのはあなたか?」と尋ねた際、ピカソは「いいえ、あなた方です」と答えたと伝えられています。
この話の真偽については議論がありますが、『ゲルニカ』がナチスや戦争そのものへの強烈な告発として受け止められていたことを象徴するエピソードとして今日まで語り継がれています。
名画の再解釈


少年時代から古典絵画を学び、キュビズムを生み出し、シュルレアリスムを取り入れながら常に変化を続けてきたピカソ。そんな彼が晩年に取り組んだのが、過去の名画を自分なりに描き直す「再解釈」のシリーズでした。
その代表例が、スペイン黄金時代を代表する画家ディエゴ・ベラスケスの傑作『ラス・メニーナス(女官たち)』です。
1656年に描かれたこの作品は、現在マドリードのプラド美術館に所蔵されるスペイン美術を代表する名画として知られています。
1957年、76歳となったピカソは、この『ラス・メニーナス』を題材に58点もの連作を制作しました。しかし、彼の目的は原作を忠実に模写することではありませんでした。
人物を単純な図形へ分解したり、色彩を大胆に変えたり、ある部分を誇張し別の部分を省略したりしながら、自分自身の視点で名画を描き直したのです。
例えば、原作では中央に描かれている王女マルガリータは、ピカソの作品ではキュビズム的な幾何学模様を思わせる姿へと変貌しています。また、登場人物たちの表情や空間構成も大きく変化し、同じ場面でありながら全く別の作品のように見えます。
興味深いのは、これらの作品が単なるパロディや模倣ではないことです。若い頃に古典絵画を徹底的に学び、写実表現を極めたピカソだからこそ、ベラスケスの作品を深く理解した上で、それを自分の言葉で語り直すことができました。
言い換えれば、このシリーズは少年時代の写実画からキュビズム、シュルレアリスム、そして晩年の自由な表現へと至る、ピカソの長い芸術人生の集大成とも言える作品群なのです。
現在、これらの『ラス・メニーナス』連作はバルセロナ・ピカソ美術館を代表するコレクションの一つとなっています。
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【世界三大絵画とは】 世界三大絵画と言いながら実は4つあります。ベラスケスの『ラス・メニーナス』レンブラントの『夜警』エル・グレコの『オルガス伯の埋葬』そしてレオナルド・ダビンチの『モナ・リザ』 |
| このうちの3点が世界三大西洋絵画となりますが『ラス・メニーナス』だけは確定していて、残り2つは『オルガス伯の埋葬』『夜警』『モナ・リザ』の3つのどれかで、それらは諸説により異なります。 | |
気晴らしの絵


1957年の『ラス・メニーナス』連作は、わずか数か月の間に58点もの作品が制作された大作業でした。
しかし、その制作期間中もピカソは時折筆を休めています。とは言え、普通の人のように散歩へ出掛けたり、別の趣味に没頭したりしたわけではありません。ピカソの場合、気晴らしもまた絵を描くことでした。
『ラス・メニーナス』シリーズの合間には、カンヌのアトリエで飼っていた鳩を題材にした『小鳩』の連作や、当時の恋人ジャクリーヌの肖像画などが描かれています。
これらの作品を見ると、重厚なテーマの制作から少し離れ、より自由な気持ちで筆を走らせていた様子がうかがえます。ところで、気晴らしに絵を描くという発想自体が、私たちにはなかなか理解し難いものです。しかし、まさにその感覚こそが、生涯に10万点を超える作品を残したピカソらしさなのかもしれません。
また、ピカソと言えば絵画のイメージが強いですが、戦後は陶芸にも大きな情熱を注ぎました。『ラス・メニーナス』制作中にも、息抜きのように陶器制作へ取り組み、『闘牛と魚』をはじめとする遊び心あふれる作品を数多く残しています。
これらの陶芸作品は、バルセロナ・ピカソ美術館の中でも特に中世貴族の館の面影を色濃く残す展示室に並べられています。何百年も前の重厚な石造りの空間に、ピカソの自由奔放でユーモラスな陶器が並ぶ光景は、どこか不思議でありながら、この美術館ならではの魅力の一つとなっています。
晩年

晩年のピカソは、絵画だけでなく版画や陶芸など様々な分野で精力的に創作活動を続けました。
その一つが、18世紀の伝説的な闘牛士ペペ・イリョの著書の再刊プロジェクトです。ピカソは挿絵を担当し、『槍でジャンプ』をはじめとする27点の版画作品を制作しました。
これらはアクアティントと呼ばれる版画技法によるもので、黒インクの濃淡だけを用いた非常にシンプルな作品です。しかし、その簡潔な線の中にも闘牛の躍動感や緊張感が見事に表現されており、油彩画とは異なる魅力を感じることができます。
一方で絵画においては、巨匠作品の再解釈や仮面、画家とモデルといった生涯を通じて取り組んだテーマを引き続き描き続けました。そして、晩年の作品に共通して見られる最大の特徴が、その大胆な色彩と自由な筆遣いです。
『腰掛けた男』や『絵を描く画家』などの作品では、ばら色や青、グレー、白といった明るい色彩が画面いっぱいに広がり、黒い太い輪郭線によって人物が力強く描かれています。
また、筆の動きは以前にも増して素早く大胆になり、細部を描き込むというよりも、一瞬の勢いや感情をそのままキャンバスへ定着させたかのような印象を与えます。
少年時代には驚くほど写実的な絵を描いていたピカソですが、90歳を超えた晩年には、まるで子供が自由に描くような奔放さを手に入れていました。しかし、それは技術が衰えた結果ではなく、長い芸術人生の末にたどり着いた、一つの到達点だったのかもしれません。

最後に、ピカソが亡くなる前年の1972年、91歳の時に描いた自画像を紹介します。
92歳という長寿を全うしたピカソは、20世紀最大の芸術家とも称される人物です。生前から世界的な名声を獲得し、経済的にも成功を収め、後世に残した作品数は10万点を超えると言われています。
そんな彼が人生の最後に近い時期に描いたのが、この自画像です。大きく見開かれた両目は見る者を強く見つめ返し、顔は極限まで単純化されています。しかし、その表情から何を感じるかは人によって大きく異なるでしょう。
恐怖にも見える。
驚きにも見える。
あるいは強烈な生命力にも見える。
私自身は、この絵を見るたびにどこか寂しさのようなものを感じます。
少年時代から絵を描き続け、数え切れないほどの女性を愛し、世界中の賞賛を受けながら生きたピカソ。その長い人生の最後に残されたこの視線は、一体何を見つめていたのでしょうか。
答えは誰にも分かりません。しかし、それを想像することもまた、この絵を鑑賞する楽しみの一つなのかもしれません。
充実のショップ

見学を終えたら、最後にミュージアムショップにも立ち寄ってみてください。
館内のショップは比較的広く、画集やポストカード、ポスター、文房具などピカソに関連した商品が充実しています。美術館ならではのお土産を探したい方にはおすすめです。
また、ショップは美術館の入場チケットがなくても利用できます。そのため、時間がない方やお土産だけ購入したい方でも気軽に立ち寄ることができます。
【行き方解説】
行かれた方から「迷った、入口が分かり難かった」と言う声が何度もありましたので、行き方動画を作りました。参考にしてみて下さい。
まとめ&アドバイス
ピカソ美術館を訪れた人からよく聞かれる感想があります。それは、「ピカソって、こんなに写実的な絵も描いていたんだ」「子供の頃からこれだけ描けたのなら、やはり天才だったんだな」
というものです。
20世紀最大の芸術家とも言われるピカソの評価としては少し不思議な感想ですが、多くの人が最初に抱く率直な印象は、実際のところそんなものかもしれません。私たちが一般にイメージするピカソ作品は、キュビズム以降の難解な作品です。
しかし、それらを一度見ただけで理解するのは容易ではありません。実際、1907年に発表された『アヴィニョンの娘たち』は、同じ前衛芸術運動の中にいた画家たちからさえ戸惑いや反発を招いたと言われています。
そう考えると、美術の専門家でもない私たちが無理に理解しようとする必要はないのではないでしょうか。分かったふりをする必要もありません。ただ眺めてみる。しばらくしてまた見る。人生経験を重ねた後にもう一度見てみる。
そうしているうちに、ある日突然、以前とは違って見える作品が出てくるかもしれません。
その意味で、少年時代から晩年までの作品を時代順にたどることができるバルセロナ・ピカソ美術館は、ピカソという芸術家を知るための最良の場所の一つだと思います。
世界的な名画を見るための美術館というよりも、一人の天才画家がどのように成長し、変化し続けたのかを知るための美術館。時間があれば、ぜひ一度訪れてみてください。
なお、ピカソ美術館は季節や時間帯によっては非常に混雑します。特に観光シーズンは当日券が売り切れることも珍しくありませんので、事前予約をおすすめします。
ピカソの面白ばなし
| 【生まれたときは死産と思われた】 ピカソは大変な難産で生まれ、産声を上げなかったため助産婦は死産だと思い込みました。しかし、近くにいた叔父のドン・サルバドールが葉巻の煙を赤ん坊の顔に吹きかけたところ、ピカソは突然泣き出したと言われています。この話が事実かどうかは分かりませんが、「ピカソの人生は誕生の瞬間からドラマチックだった」としてよく語られるエピソードです。 |
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| 【非常に長いクリスチャンネーム】 これはよく知られた話ですが、ピカソは非常に長い洗礼名を持っていました |
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正式名は、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピニアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」と言われています。もちろん本人も普段は使っておらず、世界中で単に「ピカソ」と呼ばれています。 |
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| 【最初の言葉は、えんぴつ】 真偽は定かではありませんが、スペイン語で鉛筆を意味する「lápiz(ラピス)」がピカソの最初の言葉だったと言われています。実際には「lapiz」ではなく「lapicero(鉛筆)」の一部を発音したという説もありますが、幼い頃から絵に強い関心を示していたことを象徴するエピソードとして有名です。 |
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| 【ピカソは問題児だった】 ピカソは子供の頃から非常に気が強く、学校の規則を嫌っていました。先生から叱られることもしばしばあり、その度に罰として教室に座らされていたと言われています。ただし本人は後年、「私は罰を苦にしたことはない。スケッチブックを持って行くことができたからだと語っています。 |
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【モナリザ盗難事件で逮捕される】 1911年にルーブル美術館から『モナ・リザ』が盗まれた際、警察はピカソの友人で詩人のギヨーム・アポリネールを逮捕しました。その後の捜査でピカソの名前も浮上し、実際に事情聴取を受けています。 |
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最終的には無関係と判断され釈放されましたが、20世紀最大の芸術家がモナ・リザ盗難事件の容疑者になったというのは何とも不思議な話です。 |
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| 【キュビスムは批判から名づけられた】 1909年にピカソとフランスの画家のジョルジュ・ブラックと創始したキュビスムという名の由来は、フランスの批評家ルイ・ボークセル(Louis Vauxcelles)が名づけたもので、彼が「ピカソらの作品を、立方体(キューブ)以外の何でもない」と批判したところから来ています。 |
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| 【最も多作で、最も作品総額の高い画家】 ピカソは生涯で約13,500点の油彩画、10万点以上の版画やデッサン、34,000点を超える挿絵などを残したと言われています。その制作数はギネス世界記録にも登録されており、「最も多作な芸術家」の一人として知られています。また作品の市場価値も非常に高く、2015年には『アルジェの女たち』が約1億7,900万ドルで落札され、当時の世界最高額記録を更新しました。 |
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| 【プレイボーイ】 有名画家には女性関係の話がつきものですが、ピカソも例外ではありませんでした。生涯で数多くの女性と恋愛関係を持ち、作品のモデルとなった女性も少なくありません。最後の妻ジャクリーヌとは27歳差で、彼女が20代の頃から関係が始まったと言われています。 |
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| 【岡本太郎と親交があった】 日本を代表する芸術家・岡本太郎は、パリ留学時代にピカソの作品から大きな影響を受けました。その後、実際にピカソと交流する機会もあり、日本人芸術家の中では比較的ピカソに近い存在だったと言われています。詳しくは、テレビ番組『私とピカソ』でも紹介されています。 |
実は発達障害
諸説はあるものの、ピカソは実はADHD(注意欠陥・多動性障害 )だったと言われています。このアスペルガー症候群と並ぶ発達障害の一種のADHDは症状として不注意(集中力がない)多動性(じっとしていられない)衝動性(考えずに行動してしまう)の3つの症状がみられ、具体的には以下の特徴があります。
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・忘れ物が多い。 ・何かやりかけでもそのままほったらかしにする |
| ・集中しづらい、でも自分がやりたいことや興味のあることに対しては集中しすぎて切り替えができない。
・片づけや整理整頓が苦手。
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では、幼少の頃の様子、また家族や友人などの証言による生前のピカソはと言うと。。。
ピカソにまつわる話でも書きましたが、ピカソは出生時、重度の仮死状態であったために、それがADHDの発症と関連していると言われています。また、これも既に述べましたが問題児だったピカソは小学校のころから落ち着きがなく、勝手に席を立ったり、授業中ひたすらノートに落書きしたりしていましたが、ただ絵を描くことに関してだけは超人的な集中力を発揮できました。
つまり、興味の無い事には全く見向きもせず、好きなことにはずば抜けた才能を発揮できたわけです。
そして、ピカソはいくらでもアイデアを思いつく人で、次々と新しい魅力的なアイデアが正に空から彼の頭上に降って来て、それ故に何かをやり遂げる前に次のことへ移ってしまうこともしばしばでした。また、ピカソは自由な生活スタイルを好み、それは因習にとらわれない自由奔放なもので、アトリエの中に画材やさまざまながらくたを置き、更に犬一匹、シャム猫3匹、サルなど珍しいペットを飼っていました。
更にピカソはいわゆる「捨てられない」人で、まったく整理整頓ができず部屋は無秩序。小物、ガラクタ、食べ物、服、芸術作品などがうず高く積み上げられていたと言い、それは現在で言うゴミ屋敷状態。実際、自分でも物がどこにあるかわからず、同居人に大事な手紙や本などを見つけてくれるように頼んだと言われ、彼のズボン服のポケットはに色々な物を中に詰込み過ぎて破れることもしばしばあったそうです。
ちなみに、ピカソの名言として「明日に延ばしてもいいのは、やり残して死んでもかまわないことだけだ。今日できることは今日すべき。」と言うのがあります。世間では偉大な芸術家の素晴らしい言葉だと認識されていますが、実はそうした意味ではなくピカソはただ約束を守れないどうしようもない人で、本当のところは急ぎで頼まれた肖像画や挿絵をよく先延ばしにし、その際の言い訳に苦し紛れに言っていただけでした。
つまり彼にとって、たとえ大事な仕事でも自分が興味を持てないものなら「やり残して死んでも構わないこと」だったと言うわけです。
また、ピカソは絵のスタイルがころころ変わったことでも有名で、青の時代→ばら色の時代→アフリカ彫刻の時代→セザンヌ的キュビスムの時代→分析的キュビスムの時代→総合的キュビスムの時代→新古典主義の時代→シュルレアリスム→ゲルニカの時代→晩年の時代と、数年単位で変化し続けました。ピカソが次にどんな絵を描くかは誰にも予想不可能で、熱心なファンだったダグラス・クーパーでさえ、晩年の作品群にはついていけないと思ったほどでした。
こうしためまぐるしく変わるテーマ性は、ADHDの症状の一つ「新奇性探究」の特徴と言われています。簡単にいえば、飽きてしまうと集中できないため一箇所にとどまることはできず、常に新しいことを追い求め冒険し続けないと生きられないからです。また、ピカソは、一つのことで完璧を目指すより、適当に切り上げて、次々に新しいことに取り組むことのほうが、はるかに得意でした。
だからこそ、ピカソは生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家としてギネスブックに記されているのです。もしピカソが、一つの絵に完璧を求めて微修正を繰り返したり、構想に悩み続けたりするタイプだったら、こんなに多作にならなかったのは間違いありません。
これまでの述べた通り、ピカソはまるでわがままで無邪気な子どもそのものでした。ただ、その裏を返せば自己中心的で協調性がなかったので、友だちとなかなか親密になれませんでした。しかし、一方では一人でいることには耐えがたく、対人関係には積極的で常にいろんな人と会っていたそうです。
結局のところ人間関係やコミュニケーションが苦手だったわけではなく、積極的に人と関わりましたがピカソがあまりにも子どもっぽかったので、大人としての深い付き合いができなかったのでしょう。
前章で紹介した番組で岡本太郎さんも述べていますが「彼と話していると途中、話があっちいったりこっちいったり、まるで無邪気な子供がしゃべるそんな感じだった…」と言うのが、よくそれを表していると思います。
ただ、ピカソ自身も自分の子どもっぽさを意識していたものと思われ「子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかだ」と述べており、晩年にはさらに子どもらしくなったピカソは「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と喜んでいたそうです。
子どもらしいことはピカソにとって恥ではなく、むしろとても意味のある勲章だったわけで、実際ADHDの人は子どもがそのまま大人になったような人だと形容されることがよくあります。
尚、あの地元カタルーニャのサルバドール・ダリも同じADHDであったと言われ、近年研究家の間で彼もそうではなかったのかと言われるのがガウディ。
時代こそ違いますがゴッホも実はアスペルガー症候群だったと言うこれらの事実は、天才芸術家たちを知る上で興味深いところです。
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お勧め度:18点/20点 |
| 住所 | Montcada 15-23 【地図】 |
| URL | http://www.museupicasso.bcn.cat/en/ |
| 開館 | 10/14-4/13:10:00~19:00、4/15-10/12(火水日):9:00~20:00, (木金土):9:00~21:00 ※1/5:10:00~17:00、12/24, 12/31:10:00~14:00 休館日:月曜(祝日の場合も)、1/1、5/1、6/24、12/25 |
| 料金 | 公式サイトより確認下さい。 |
| 最寄駅 | 地下鉄 4 号線 ジャウマ・プリメJaume Iから徒歩5分 |
| お得情報 | 毎月第一日曜日は終日、10/14-3/13の木曜日16時以降、4/15-10/12の木金土19-21時、1/4,5,2/12, 5/18, 9/24は無料。そのチケットは4日前からWebで受付。6つの美術館に入ることができるArticket BCN アルティケット・バルセロナも利用可能です。 |
| 記事は取材時点のものです。現在とは記事の内容が異なる場合もありますのでご了承ください。間違った情報、また有用新情報、分かり難い点や質問等ございましたら情報共有いたしますので、サイト内の「バルセロナ観光情報掲示板」に書き込んでください。 |
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@ | この記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパを旅し1997年よりバルセロナに在住。。 記事最終更新 2026,06.01 |
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