
このページは「ジローナ観光ガイド」の深掘り記事です。旅行の基本情報は本記事をご覧ください。
このページは、ジローナの観光ルートや主な見どころを紹介した本記事を、すでに読まれた方の利用を想定しています。
初めてジローナを訪れる方や、街歩きに必要な基本情報を探している方は、まず本記事をご覧ください。
ここでは本記事では短く触れたローマ時代の街道と城壁、ユダヤ人街、教会、戦争の歴史などを、現地で見られるものと結びつけながら、もう少し詳しく取り上げます。
目次
Plaça de la Independència 独立広場

この街歩きの起点となる独立広場の「独立」は、現在のカタルーニャ独立運動とは関係ありません。
19世紀初頭、ナポレオン支配下のフランス軍がスペインへ侵攻し、ジローナも1808年から1809年にかけて繰り返し包囲されました。広場の名前は、スペイン独立戦争でフランス軍に抵抗し、街を守った人々を記念したものです。
ナポレオン軍との戦いを記念する厳粛な名前とは対照的に、現在の広場にはレストランやバルのテラス席が並び、市民や旅行者が食事を楽しむ、ジローナでも特ににぎやかな場所となっています。
この場所には、かつてサン・アグスティン修道院がありました。修道院の閉鎖後、その跡地が計画的に再開発されたため、広場は整った形をしており、周囲の建物も高さや外観に統一感があります。
ちなみに、バルセロナのレイアール広場も修道院の跡地に造られた広場です。どちらも19世紀に計画的に整備され、現在はアーケードの下に飲食店が並ぶ、街を代表するレストラン街となっています。
ところで…
【なぜジローナの人はここで過ごすのか?】
スペインでは広場は単なる観光地ではなく、人々が待ち合わせをしたり、家族や友人と食事を楽しんだりする生活の場でもあります。
独立広場もその代表で、昼はテラス席でランチを楽しむ人、夕方には散歩や待ち合わせをする人で賑わい、観光名所であると同時に、ジローナの日常を感じられる場所でもあります。
と言うわけで、これ以上ここで解説することも特にないので一つレストランを紹介して終わります、
【広場のお勧めレストラン 】

独立広場で食事をするなら、1892年創業の老舗「Casa Marieta」がおすすめ。観光客も利用しやすく、地元の家族連れにも長年親しまれているので、初めてでも気軽に入れます。定番は、鴨肉と洋梨の煮込み(写真、右から2)やカタルーニャ風カネロニ(写真、右端)。
郷土料理らしさを味わうなら、鶏肉と手長エビを煮込んだ「Pollastre amb escamarlans」、魚料理なら漁師風の魚介煮込み「Suquet de peix」もおすすめです。スペインの煮込み料理は量が多く味もしっかりしているので、少食の人なら、前菜はサラダ程度にして、定番料理を一品選ぶくらいで十分でしょう。
サン・フェリウ教会

カテドラル大聖堂とならび街の象徴でもあるサン・フェリウ教会。
初めて見ると、教会というよりも砦のような印象を受けます。右の写真を見ると分かる高くそびえる平らな石壁、少ない窓、重々しい外観は、人を迎え入れるというより、外から来る者を拒んでいるかのようです。
実際、この教会は旧市街の北側、かつての城壁のすぐ外に建っていたため、敵の攻撃を受けやすい場所にありました。そのため中世には教会そのものが要塞化され、城壁と一体となって街を守る役割を担いました。現在の鐘楼も、下の二層はもともと全く窓のない防御塔として建てられたものです。
【落雷で壊れた塔と未完成の塔】

もう一つ目を引くのが、先端を途中で切り取られたような鐘楼です。もともとは、さらに上へ尖った塔でしたが、1651年に落雷を受けて先端部分が失われ、そのまま現在まで残されています。
なお、正面向かって反対側に見える低い塔は、落雷で壊れたものではありません。もともと鐘楼と対になる防御塔として造られましたが、こちらは途中までしか建設されませんでした。つまりサン・フェリウには、落雷で先端を失った塔と、最初から完成しなかった塔の二つがあるのです。
人を祈りへ招く教会でありながら、同時に敵を近づけない城壁でもあった。その二つの役割が、サン・フェリウの独特な外観を生み出しています。
入口の真上から攻撃する「石落とし」

サンフェリユに広場からサン・ペレ・デ・ガリガンツ修道院への途中広場から徒歩で2分のところにあるサンフェリウへの入り口の一つ北門へ立ち寄ってみてください。
ここでは興味深いものが見れます、中世の建物では、入口が最も攻められやすい弱点でした。そこで入口の真上に、下へ向かって石や矢などを落とすための防御設備が設けられました。
写真上部のバルコニーをよく見ると、本来あるはずの床がありません。これはカタルーニャ語で「マタカ(matacà)」と呼ばれる防御設備で、床の開口部から石を落とし、門を破ろうとして壁際に集まった敵を真上から攻撃する構造でした。石落としで下方へ攻撃するための開口部でした。マタカンは、城壁や門などで、真下に迫った敵を攻撃するために使われました。
こういう防御の工夫を見ると、中世のジローナが戦いを常に意識して造られた街だったことが分かります。
独立広場 → サン・フェリウ教会→ サン・フェリウ教会北門 → サン・ペレ・デ・ガリガンツ修道院
サン・ペレ・デ・ガリガンツ修道院

サン・フェリウ教会の北門から少し歩くと、今度は低く落ち着いた石造りの建物が現れます。
サン・ペレ・デ・ガリガンツは、10世紀にはすでに存在していたベネディクト会の修道院です。現在残る教会と回廊は、主に12世紀に造られました。「ガリガンツ」という名は、すぐそばを流れるガリガンツ川に由来します。
今では教会と回廊だけが残っていますが、中世にはここを中心に一つの地区が生まれ、周辺一帯は長く修道院長の支配下に置かれていました。修道院は僧侶が祈る場所であるだけでなく、土地を所有し、住民を治める小さな権力でもあったのです。
修道院は、19世紀の教会財産没収によって1836年に閉鎖されました。その後、1857年から博物館として使われるようになり、現在はカタルーニャ考古学博物館のジローナ館となっています。
内部では、先史時代から中世まで、ジローナ周辺で発掘された資料を見ることができます。同時に、ロマネスク様式の教会内部や回廊も見学できるので、博物館というより、古い修道院の中を歩きながら展示を見るような造りです。
特に見ておきたいのが、小さな回廊です。柱の上の柱頭には、植物模様のほか、人間や動物、空想上の生き物などが彫られています。文字を読める人が少なかった時代、こうした彫刻は、聖書の物語や善悪の教えを目で伝える役割も持っていました。修道院全体には83の柱頭が残り、そのうち60が回廊にあります。
静かな回廊だけを眺めていると、小さな祈りの場に見えます。しかし中世には、この修道院を中心に人が暮らし、土地が管理され、一つの地区が形づくられていました。
アラブ浴場

アラブ浴場という名前から、イスラム教徒がジローナを支配していた時代に造られた建物だと思うかもしれません。しかし、現在の浴場が造られたのは12世紀末。ジローナがキリスト教勢力の町となってから、すでに長い年月が過ぎた時代です。
建物自体はロマネスク様式ですが、着替え室から冷水、ぬるい部屋、温かい部屋へ進む構成には、古代ローマとイスラム圏の浴場文化の影響が見られます。では、なぜキリスト教徒が、宗教的には敵対していたイスラム世界の浴場形式をわざわざ取り入れたのでしょうか。
中世のイベリア半島では、政治や宗教の対立があっても、人々の生活文化まで完全に分断されていたわけではありませんでした。戦争によって支配者が変わっても、水を引く技術、農業、医学、建築、食文化など、役に立つ知識は簡単には失われません。浴場もその一つでした。
温度の異なる部屋を移動し、蒸気と水で体を温め、汚れを落とす。この仕組みは、信仰に関係なく実用的です。キリスト教徒はイスラム教を受け入れなくても、優れた入浴方法まで捨てる必要はなかったのです。
【食文化の融合】

イスラム文化の影響は、この浴場だけに残っているわけではありません。現在、スペイン料理を代表するパエリアも、料理そのものがイスラム時代に完成したわけではありませが、その土台となる米作や灌漑農業、米料理は、イスラム支配下のイベリア半島で大きく発達しました。
乾燥した土地へ水を引き、田畑へ分配する技術があったからこそ、バレンシア地方で米を育てることができました。つまり、現在のパエリアも、遠い時代に受け継がれた水利と農業の知識の上に成り立っています。
また、スペイン語にも、その痕跡が残っています。例えば、arroz(米)、aceite(油)、azúcar(砂糖)、acequia(用水路)などは、アラビア語に由来する言葉です。さらに、サフランを意味する azafrán、アーティチョークを意味する alcachofa、など。ちなみに現在スペインで大流行のひよこ豆のペーストのフムスもアラブ圏を代表する料理です。
キリスト教勢力はイスラム勢力から領土を奪いました。しかし、農業、水利、食文化、建築、言葉まで完全に消し去ることはできませんでした。むしろ、かつて敵とされた人々の技術や文化を取り込みながら、現在のスペイン社会が形づくられていったのです。
現在「アラブ浴場」と呼ばれているこの建物も、イスラム建築をそのまま複製したものではありません。
イスラム圏の浴場形式を、キリスト教時代の職人たちがロマネスク建築として造り直したものです。中央の八角形の浴槽、細い柱、その上から差し込む光には、異なる文化が混ざり合った姿が表れています。
宗教や政治は、人々を敵と味方に分けます。しかし生活の中では、便利な技術を使い、食べ物を取り入れ、言葉を借り、建築の形をまねる。文化は、政治が引いた境界線を簡単に越えてしまいます。
この浴場が伝えているのは、単なる「アラブ風の珍しい建物」という話ではありません。現在のスペインらしさそのものが、対立してきた文化を取り込み、混ぜ合わせた結果として生まれている。そのことを目に見える形で残している建物なのです。
街道を守る城塞都市として始まったジローナ

ローマ時代のジローナは、「ゲルンダ」と呼ばれていました。ゲルンダは、ローマ帝国の大街道ヴィア・アウグスタを押さえるために築かれた、城塞都市だったと考えられています。
街道は北側の城門から城壁内へ入り、現在のカレル・デ・ラ・フォルサに沿って町を縦断し、南側の城門から再び城外へ延びていました。つまり、現在の旧市街を通るこの道は、ローマ時代には帝国内の各都市を結ぶ大街道の一部でした。
復元図の①は神殿があった場所(現在のカテドラル)、②はこの後に訪れる城壁の城門、③は後世に幅を広げられた階段です。
では、その街道は現在の町のどこを通り、ローマ時代の城壁はどのような姿で残っているのでしょうか。
ジローナの旧市街に残るローマ時代の街道と城壁

ジローナの旧市街を歩いていると、大聖堂やユダヤ人街、細い石畳の路地に目を奪われます。しかし、この街の成り立ちを知るうえで見逃せないのが、現在のカレル・デ・ラ・フォルサです。
一見すると旧市街にある細い通りの一つにすぎませんが、ここは約二千年前、ローマ帝国の主要街道であるウィア・アウグスタが通っていた場所でした。そして通りがかつての城壁を抜けるところには、現在もローマ時代の石積みが残っています。
ウィア・アウグスタとは

「ウィア」はラテン語で「道・街道」、「アウグスタ」は「アウグストゥスの」という意味です。つまり、ウィア・アウグスタとは、直訳すると「アウグストゥスの街道」。ガリア方面、現在の南フランスからピレネー山脈を越え、スペイン東部の主要都市を南北に結んだ、ローマ帝国の重要な幹線道路でした。
ちなみに、この街道はジローナだけを通っていたのではありません。カタルーニャ各地の町が本線や支線によって結ばれ、バルセロナの前身であるバルキノも、この広大な街道網につながっていました。現在のバルセロナにも「Via Augusta」という名の大通りがあり、古代ローマ街道の名を今に伝えています。
北ではナルボンヌ方面でウィア・ドミティアに接続し、広大な街道網を通じて、さらにローマへとつながっていました。この街道は、単に人が移動するためだけの道ではありません。兵士や物資、命令、税、情報などが行き交い、ヒスパニアの都市と帝国の中心を結ぶ重要な役割を担っていました。
日本でたとえるなら、江戸時代の東海道や中山道のような、国家を支える大動脈だったのです。ウィア・アウグスタもまた、「すべての道はローマに通ず」という言葉に象徴される、広大なローマ街道網の一部でした。
城壁に重なる二つの時代の石積み

カレル・デ・ラ・フォルサが、かつての城壁を通過する場所では、ローマ時代の城壁と、その後の時代に修復された部分を同時に見ることができます。
見分けるのは、それほど難しくありません。ローマ時代の部分には、大きく切りそろえられた砂岩が使われています。それに対して、後世に積み直された部分は石が小さく、大きさや形、材質も不ぞろいです。
二つの時代の石積みが同じ壁面に折り重なっているため、石の大きさと材質に注目すれば、その違いは一目で分かります。ジローナの旧市街には、中世の町並みの中にローマ時代の都市が消えずに残っています。大きな遺跡として保存されているのではなく、現在の通りや建物、城壁の一部として、後世の町と折り重なっているのです。
そういう意味で、この城壁にはローマ時代の基礎と中世の増改築が共存、約2,000年の歴史を一つの壁の中に見ることができます。
大階段の下から見るジローナ大聖堂
長い大階段の先に立つジローナ大聖堂は、一つの時代に完成した建物ではありません。正面は華やかなバロック様式ですが、その奥にはゴシック様式の大きな礼拝空間があり、回廊や塔にはさらに古いロマネスク様式が残っています。
つまり、この大聖堂は、時代ごとに増築と改修を重ねてできた建物です。まずは階段の下から全体を眺め、内部ではそれぞれの時代の違いを見ていきましょう。
ちなみに、この大階段は毎年開かれる花祭り「Temps de Flors」の会場にもなります。また、人気ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のロケ地として使われたことでも知られています。


ジローナを訪れたら、ぜひ大聖堂の大階段をゆっくり上ってみてください。
またその途中、少し足元にも目を向けてみましょう。
実は、階段に使われている石は、約5,000万年前、まだ人類は存在せず、恐竜が地球から姿を消してから約1,600万年が経った頃、この場所は暖かな海の底に暮らしていた丁度コインの形をしたことからそう呼ばれる貨幣石(ヌンムリテス)が化石となり、長い年月を経て石灰岩となります。そして中世になると、その石が切り出され、ジローナ大聖堂の階段や大聖堂の石柱として使われました。
中世の大聖堂へ向かう階段を上りながら、はるか数千万年前の海の記憶まで見ることができる――。これもジローナ大聖堂ならではの楽しみの一つです。
大聖堂正面のファサード

階段を上りきると、目の前に壮麗なバロック様式のファサードが現れます。
実はこの大聖堂は、完成までに数百年を要しました。そのため、内部にはゴシック様式、正面には後世のバロック様式が見られます。
細かな彫刻や柱の装飾を眺めていると、この大聖堂が一つの時代に造られた建物ではないことが分かります。
ところで、なぜ大聖堂の建設には、これほど長い年月が必要だったのでしょうか?
そして、なぜ後の時代の人々は、最初の建築様式をそのまま守らず、自分たちの時代の新しい様式を付け加えたのでしょうか?
その大きな理由は、大聖堂が最初から一枚の完成図に従い、途切れることなく造られた建物ではなかったことにあります。
巨大な石造建築には、莫大な費用と人手が必要でした。資金が集まれば工事が進み、資金が尽きれば止まる。戦争や疫病、政治的な混乱によって、工事が長期間中断することもありました。
数十年後、あるいは百年以上たって工事が再開されたときには、当初の司教や建築家はすでに亡くなっています。建築技術も、人々が美しいと感じる様式も、教会が示そうとする権威の形も変わっていました。
そのため、後の時代の人々は、昔の様式を忠実に再現するのではなく、その時代に最も新しく、立派だと考えられた様式で工事を引き継ぎました。ジローナ大聖堂でも、現在の主要部分は14世紀から18世紀にかけて造られました。正面ファサードは1606年に着工されましたが、その完成はさらに後の時代まで持ち越されています。
つまり、内部のゴシック様式と正面のバロック様式は、単に異なる装飾が混ざっているのではありません。工事が止まり、時代が変わり、再び別の人々が建設を引き継いだ。その長い過程が、建物の姿として残っているのです。
これは、現在も建設が続くバルセロナのサグラダ・ファミリアにも通じます。
サグラダ・ファミリアは、もともとガウディとは別の建築家、フランシスコ・デ・パウラ・デル・ビリャールの設計で始められました。ガウディはその途中から計画を引き継ぎ、当初のネオゴシック建築を、自らの構想による巨大な聖堂へと大きく変更しました。

しかし、ガウディも完成を見ることなく亡くなります。その後の建築家たちは、残された模型や図面、写真などを手掛かりに工事を引き継いだと言われます。ただ、現在では鉄筋コンクリートやコンピューターによる設計、工場で製造した部材を現場で組み立てるプレハブ工法など、ガウディの時代とは異なる安易な技術も使われています。
もちろん、現代の建築家たちはガウディの構想を完成させようとしています。しかし、実際にガウディ自身が形を決めた部分と、残された資料を基に後世の人々が解釈して造った部分とを、完全に同じものと考えてよいのかという疑問は残り、実際ガウディ死後に作られたサグラダファミリア世界遺産の指定から外されています。
そう考えると、異なる様式や技術が混ざることは、大聖堂では必ずしも例外ではありません。むしろ、何世代にもわたって建設される巨大な教会では、後の時代の人々が先人の計画を受け継ごうとしながら、自分たちの時代の技術と判断を加えた紆余曲折の末の歴史の残骸だったとも言えるのです。
大聖堂内部、見学の流れ

ここからは大聖堂の内部へ入り、実際の見学順に沿って、それぞれの主な見どころを見ていきます。
外の世界との隔絶
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身廊の異様な広さ
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巨大なパイプオルガン
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床に刻まれた死者の記憶
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黒いマリア像
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宝物館と『天地創造のタペストリー』
大聖堂の扉をくぐる――外の世界が消える瞬間
『ここは動画で、外から中へ入った時の印象の違いを見せる』
大階段を上り、華やかなファサードを見上げたあと、大聖堂の扉をくぐると、空気が一変します。
外から差し込んでいた強い光が弱まり。目の前に広がるのは、高く、薄暗く、静かな空間。外観の華やかさに比べると、内部は思ったほど装飾が多くなく、最初は少しがらんとして見えるかもしれません。しかし、その何もないように見える空間こそが、この大聖堂の大きな魅力です。
光が変わり、音が消え、外の世界から切り離される。その瞬間こそ、テレビの旅番組や旅YouTubeでは伝えきれない、実際にここを訪れた人だけが味わえる体験なのだと思います。
もしかすると、この大聖堂で最も感動するのは、個々の祭壇や美術品を見たときではなく、扉をくぐり、外の世界から切り離された、その瞬間なのかもしれません。
左右の壁が遠い――異様に広い身廊

中へ進んだら、正面だけでなく左右にも目を向けてみてください。柱が何列も並んで空間を細かく分けているのではなく、一つの巨大な空間が広がっています。そのため、左右の壁が驚くほど遠く感じられます。
ジローナ大聖堂の身廊は、幅約23メートル。ゴシック建築の単一身廊として、世界最大級の大きな空間です。内部ががらんとして見えるのは、装飾が少ないからだけではありません。空間そのものが、普通の教会とは異なるほど広いのです。
では、なぜこのような造りになったのでしょうか。
14世紀初め、従来のロマネスク様式の大聖堂が手狭になり、新しいゴシック様式の聖堂建設が始まりました。しかし工事が身廊に差しかかったところで、大きな問題が持ち上がります。

一般的な大聖堂のように、上の画像の青線上に柱を並べた三つの身廊で造るのか。それとも、柱のない一つの巨大な身廊で造るのか?。
一つの身廊にすれば、これまでに例のないほど広い石造天井を架けなければなりません。安全に支えられるのか、地震や強風に耐えられるのか。当時の建築家たちの間でも意見が分かれ、1386年と1416年の二度にわたって専門家が集められました。
1416年に意見を求められた12人の建築家のうち、三身廊を支持したのは7人、巨大な単一身廊を支持したのは5人でした。つまり、安全で実績のある三身廊案の方が多数派だったのです。それでも翌1417年、司教と大聖堂参事会は、単一身廊で建設を続けることを決断しました。
単一身廊の方が、すでに完成していた内陣との釣り合いがよく、より荘厳で、印象的で、明るい空間になると考えられたからです。同時に、どこにもない建築を造り、ジローナ大聖堂の名を高めようとする意図もありました。
つまり、この異様な広さは、偶然生まれたものではありません。柱を増やせば、もっと安全に、普通の大聖堂らしく造ることができた。それでも彼らは、空間を細かく分けることをやめ、壁から壁までを一つにつなぐという、危険を伴う選択をしました。
内部が少しがらんとして見えるのも、単に装飾が少ないからではないのです。
身廊の中央に残されたパイプオルガン

ジローナ大聖堂のパイプオルガンで目を引くのは、その大きさだけではありません。巨大な木製の箱が壁に組み込まれることもなく、広い身廊の途中に単独で立っています。まるで後から運び込まれ、そこへ置かれたようにも見えます。
しかし、このオルガンは本来、一つだけでここに立っていたわけではありません。
かつてその前には、聖職者たちが座って祈りや聖歌を行う、大きな聖歌隊席がありました。椅子だけが並んでいたのではなく、囲い壁や背板、司教席などを備えた独立した空間で、その背後にオルガンが置かれていたのです。
ここでいう聖歌隊席は、現代の合唱団が座るための客席ではありません。大聖堂に所属する聖職者たちが毎日の祈りを行う、典礼の中心でした。中世の大聖堂は、入口から祭壇までを見渡して建築の広さを楽しむために造られたのではありません。まず、そこで祈りを続ける人々のための場所だったのです。

上の写真の同じカタルーニャにあるバルセロナ大聖堂では、現在も身廊中央に巨大な聖歌隊席が残されています。したがって、時代が変われば聖歌隊席が当然撤去されるというわけではありません。
ジローナでは、スペイン内戦中に大聖堂が博物館として使われた際、古いオルガンや聖歌隊席を囲んでいた壁などが解体されました。戦後、新しいオルガンは以前とほぼ同じ位置に設置されましたが、聖歌隊席はかつてのまとまりを失い、椅子だけが身廊中央に残るような状態になります。
そして1974年、広大な単一身廊を見渡せるようにするため、残っていた聖歌隊席も撤去されました。
世界最大級の幅を持つゴシック様式の単一身廊を、入口から祭壇まで遮らずに見せる。その見方が、聖職者たちの祈りの場をそのまま残すことよりも優先されたのです。
一方、聖歌隊席の背後にあったオルガンは、その位置に残されました。そのため現在は、かつて一つの典礼空間を構成していたもののうち、巨大なオルガンだけが身廊の中央に取り残されたように見えます。
この少し奇妙な配置は、設計上の失敗でも、置き場所がなかったからでもありません。聖職者が祈るための大聖堂から、壮大なゴシック建築を見せる大聖堂へ。その役割と価値の置き方が変わった痕跡なのです。
ところで、現在では電気を使って空気を送ることができますが、かつての大型オルガンでは、人がふいごを動かし、パイプへ空気を送り込んでいました。美しい音楽を奏でていたのは、鍵盤を弾く演奏者だけではありません。見えない場所では、送風を担う人々が働いていたのです。
パイプオルガンは楽器であると同時に、空気を蓄え、送り、音へ変える巨大な機械でもありました。
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【パイプオルガンの音色は職人の人力で】現在でこそ電気モーターを使っていますが、以前は演奏者とは別にパイプオルガンへ空気を送る裏方として、鍛冶屋で使っていたようなふいご、その大型のものを使い専門の職人が演奏中は全身を使ってずっと空気を送る作業を続けていました。 | |
| バルセロナのカテドラルの様な大きなオルガンの場合、裏にふいごが幾つも備えられていて特に夏場などはミサの間、汗だくになって作業していたと言う事です。 | ||
足元に刻まれた文字――聖堂の床に眠る人々

大聖堂では、上ばかりを見ず、足元にも目を向けてみてください。床には、文字や紋章を刻んだ石板があります。これらは単なる床の装飾ではありません。かつてここに葬られた聖職者や有力者たちの墓碑です。
ところで、なぜ教会の中、それも人が靴で歩く床の下に墓が造られたのでしょうか。現代の私たちには、墓の上を歩くことに抵抗があります。しかし、中世の人々は、現在とは少し違う考え方をしていました。
- 墓の蓋が、そのまま教会の床になっていた教会の内部で、埋葬に使える場所には限りがありました。そのため、床の下に墓を造り、その蓋となる石板を床の一部として利用しました。墓石と床を別々に設けるのではなく、一枚の石に二つの役割を持たせた、合理的な造りだったのです。
- 墓碑を目にした人に、死者のために祈ってもらうため墓は、人目につかない場所に隠すものではありませんでした。ミサに訪れた人が床に刻まれた名前を目にし、そこに眠る死者のために祈る。その祈りは、死者すなわち埋葬された本人の魂の救いにつながると考えられていました。
- 教会内に葬られること自体が名誉だった中世の人々にとって、教会は神に近い神聖な場所でした。なかでも祭壇の近くは、特に格式の高い埋葬場所とされていました。人に踏まれることよりも、神に近い場所に葬られ、多くの祈りを受けることの方が、はるかに重要だったのです。
つまり、床に設けられた墓は、決して粗末に扱われた墓ではありません。限られた教会内部の空間を合理的に使いながら、人々の目に触れ、祈りを受けられる場所に設けられた、むしろ特別な墓だったのです。
黒いマリア像――長く抜け落ちていた像

礼拝堂の中に、小さな黒いマリア像があります。これはジローナ独自の聖母像ではなく、モンセラット修道院で信仰されている「ラ・モレネタ」を表したものです。
古くからここにあったように見えますが、ジローナ大聖堂へ迎えられたのは、つい最近の2022年です。それまでジローナ大聖堂は、カタルーニャの大聖堂の中で唯一、モンセラットの聖母像を持たない大聖堂でした。
一見すると、単に一体の像が置かれていなかっただけのようにも思えます。しかし、モンセラットの黒いマリアは、単なる有名な宗教像ではありません。カタルーニャの守護聖母であり、長い間、カタルーニャ人の信仰や歴史、共同体意識を象徴してきた存在です。
しかもジローナは、カタルーニャの中でも、カタルーニャ人としての意識や独立を支持する傾向が強く表れてきた地域です。その土地の中心となる大聖堂に、カタルーニャを象徴する黒いマリア像だけがなかった。
これは、ほかの大聖堂にあるものが偶然欠けていたというより、長い間抜け落ちていた一つの空白だったとも考えられます。もちろん、像の設置が独立運動を直接意味すると限りませんが。
それでも、モンセラットの聖母を迎えることは、ジローナの教会もまた、カタルーニャ全体の歴史につながっていることを、目に見える形で示す行為でもあったのです。
ある意味、独立を主張する住民の多い街のお膝元で、なんのことはないカタルーニャの象徴である黒マリア像が無かった、知らざる逸話と言えるでしょう。
宝物館

大聖堂に隣接する宝物館には、中世の祭服や金銀細工、彫刻、聖具など、長い歴史の中で受け継がれてきた貴重な品々が展示されています。決して広い施設ではありませんが、ジローナ大聖堂の歴史や信仰を知るうえで欠かせない展示室です。
その中から、特に興味深い展示を二つご紹介します。
【イスラム時代の装飾箱】
一見するとヨーロッパの工芸品のようですが、この美しい装飾箱は10世紀にイスラム支配下のコルドバで作られたものです。もともとは貴重品を納めるための箱でしたが、後にジローナ大聖堂へ伝わり、聖遺物を納める容器として使われたと考えられています。
キリスト教の大聖堂にイスラム美術が残されていることは、中世スペインで異なる文化が交流していたことを物語っています。
【聖体顕示台】

こちらは「聖体顕示台」と呼ばれる祭具です。中央の丸い部分には、ミサで聖別された白いパン「ホスチア(聖体)」が納められます。
カトリックでは、このホスチアはキリストの体そのものになると信じられており、聖体祭など特別な典礼では、この顕示台に納められた聖体を信者に示しながら行列が行われます。まるで小さなゴシック大聖堂のような精巧な装飾も見どころです。
天地創造のタペストリー

しかし、この宝物館を訪れる最大の目的は、これらの宝物ではありません。
多くの人が足を止めるのが、約1000年前に制作された**「天地創造のタペストリー」**です。スペイン・ロマネスク美術を代表する最高傑作の一つとされ、中世ヨーロッパの世界観や聖書の物語が、一枚の巨大な作品の中に描き込まれています。
まず、天地創造とは何なのか
このタペストリーを理解するには、最初に聖書の「天地創造」の物語を知っておく必要があります。キリスト教では、この世界は偶然に生まれたのではなく、神が一つずつ秩序を与えながら造ったものだと考えます。
聖書の冒頭にある『創世記』では、世界の始まりには、まだ空も大地もなく、光と闇、水と陸地の区別さえない、形の定まらない状態が広がっていたとされています。
そこに神が言葉を発し、世界を造り始めます。最初の日、神は光を生み出し、光と闇を分けました。光を昼、闇を夜とし、ここで初めて一日の区切りが生まれます。
- 二日目には、上下に広がっていた水を分け、その間に空を造りました。
- 三日目には、水を一か所に集めて海とし、乾いた場所を大地としました。そして大地から草や木、種を持つ植物を生み出します。
- 四日目には、太陽と月、星を造りました。太陽は昼を、月は夜を照らし、季節や日、年を定めるものとなります。
- 五日目には、海を泳ぐ魚と、空を飛ぶ鳥を造りました。
- 六日目には、地上を歩く動物を造り、最後に人間であるアダムとイブを生み出しました。
- そして七日目、神は世界を造る仕事を終えて休みます。ここから、一週間の最後に休息の日を置く考え方が生まれました。
つまり天地創造とは、神が物を次々に作ったというだけの話ではありません。
光と闇、空と海、陸地と水、昼と夜、植物と動物、そして人間。まだ何も区別されていなかった世界に境界を与え、時間の流れと生命の秩序を作り上げていく物語なのです。
なぜ中央にキリストがいるのか
タペストリーの中央に描かれているのは、若い姿をしたキリストです。
『創世記』の天地創造は神の行為として語られます。それなのに、なぜここではキリストが世界の中心にいるのでしょう。
キリスト教では、キリストは後になって突然現れた人物ではなく、世界が造られる以前から神とともに存在していたと考えられていました。
聖書には、神の言葉によって世界が造られ、その「言葉」がキリストであるという考え方があります。
そのため中世の人々にとって、キリストは人間を救う存在であるだけでなく、世界を造り、宇宙の秩序を支配する存在でもありました。
中央のキリストが右手を上げているのは、見学者に挨拶をしているのではありません。世界を祝福し、すべてを統べる者であることを表しています。
その周囲に、光と闇、水と空、植物、動物、人間が造られていく場面が配置されています。
つまり、この円の中心にいるキリストから、世界全体が外側へ広がっていく構造になっているのです。
なぜ四季や月まで描かれているのか
さらに外側には、聖書の天地創造だけでなく、四季、十二か月、曜日、太陽や月、方角などが組み込まれていました。
現代の私たちは、聖書の物語と、暦や季節を別のものとして考えます。
しかし中世の人々にとって、それらはすべて同じ世界の仕組みでした。
太陽が昇って一日が始まり、月が満ち欠けし、季節が巡り、種をまく時期と収穫する時期が訪れる。そうした自然と時間の動きも、神が天地創造の際に定めた秩序だと考えられていたのです。
人間の暮らしも、その秩序の外にはありません。
春には種をまき、夏には作物を育て、秋には収穫し、冬には次の季節を待つ。人間は神が造った時間の中で働き、生きていました。
このタペストリーは、単に聖書の一場面を描いた宗教画ではありません。
中央に世界を支配するキリストを置き、その周囲に天地創造、自然、季節、暦、人間の労働を配置することで、中世の人々が考えた宇宙全体を一枚の布に表そうとしたものなのです。
現代風に言えば、宗教画というよりも、「世界はどのように造られ、どのような仕組みで動いているのか」を示した宇宙図に近いでしょう。
全部を覚える必要はありません
正直なところ、こうした背景を知らずに実物を見て、すぐに内容を理解できる人はほとんどいません。
円の中に人物や動物が並び、その外側にも細かな場面が続いているため、予備知識がなければ、古い布に不思議な絵が描かれているようにしか見えないでしょう。
全部の人物や場面を覚える必要はありません。
まずは、中央のキリストから世界が広がり、その周囲に天地創造の物語があり、さらに外側に季節や月、人間の暮らしが配置されている、と捉えてください。
これは、神が世界を造ったという物語と、その世界の中で時間が流れ、人間が暮らしているという考えを、一枚の布にまとめたものです。
そこまで分かれば、目の前のタペストリーは、単なる古い宗教美術ではなくなります。
千年近く前の人々が、自分たちの生きている世界をどのように理解していたのか。その世界観そのものが、少しずつ見えてきます。
ここからは、そのタペストリーに描かれた場面を順番に見ていきましょう。
現存する「天地創造のタペストリー」

11世紀末から12世紀初頭ごろに制作されたと考えられる刺繍作品です。現在は一部が失われていますが、中央にキリスト、その周囲に天地創造の場面、さらに季節や月、曜日などが配置されています。
タペストリー全体の構成を示した復元図

中央のキリストを軸に、聖書の天地創造と、四季・12か月・曜日・方角などが一つの世界として組み合わされていたことが分かります。単なる宗教画ではなく、当時の人々が考えた宇宙と時間の秩序を表した図でもあります。
ところで…
正直なところ、現地で実物を前にして、すぐに「なるほど」と理解できる人はほとんどいないでしょう。全部分からなくても大丈夫です。「中央にキリストがいて、その周りに聖書の世界と季節や月、曜日まで詰め込まれている」と分かるだけでも、見え方はずいぶん変わります。
大聖堂からドイツ人庭園を抜け、城壁へ

大聖堂から歩いて約5分、Jardins dels Alemanys(ドイツ人庭園)に到着します。
名前は庭園ですが、ここには19世紀初頭の対フランス戦争でドイツ人兵士が駐屯した兵舎跡や、古い城壁の遺構が残っています。庭園の左手にある階段を上がると城壁の上に出ます。ここから城壁を歩き、右手に見えるジロネラ塔跡へ向かいます。
その前に…
なぜジローナに「ドイツ人」の兵舎があったのか
彼らがここにいたのは、19世紀初頭にナポレオン軍と戦ったときではありません。
兵舎が造られたのは1690年。ドイツ人兵士が駐屯したのは、それより少し前から続いていた17世紀後半の対フランス戦争の時代です。現在残る遺構は、その兵舎が後の対ナポレオン戦争で破壊された跡なのです。
【なぜ、遠いドイツから兵士が来たのか】
まず、当時は現在のような統一された「ドイツ」という国家は存在していませんでした。
中央ヨーロッパには大小さまざまな領邦が集まる神聖ローマ帝国があり、その中から多くの兵士がヨーロッパ各地の君主に雇われていました。したがって、ここにいたのも現代の意味での「ドイツ軍」ではなく、ドイツ語圏出身の傭兵や外国人部隊と考えた方が正確です。
17世紀の戦争は、現在のように国民国家同士が戦うものではありませんでした。王家同士の血縁、領土継承、軍事同盟、金銭による雇用が複雑に絡み合い、兵士は出身地から遠く離れた戦場へ送られました。
この兵舎が完成した1690年、ヨーロッパではルイ14世のフランスに対し、スペイン王国、神聖ローマ帝国、イングランド、オランダなどが同盟を組んだ九年戦争が続いていました。ドイツ語圏の兵士がカタルーニャにいたことも、こうしたヨーロッパ規模の対フランス同盟の中で見る必要があります。
つまり、彼らは自分たちの国土を守るためにジローナまで来たのではありません。王家の同盟と軍事契約によって、ピレネー山脈の向こう側にある小さな城塞都市へ送られてきたのです。
【フランスとの国境が、ジローナを軍事都市に変えた】
では、なぜ配属先がジローナだったのでしょうか。
転機となったのは、1659年にフランスとスペインの間で結ばれたピレネー条約です。この条約によって、それまでカタルーニャの一部だったルシヨン地方とペルピニャンがフランス領となり、国境線がジローナの近くまで南下しました。
それまで地域の商業都市だったジローナは、突然、フランス軍の侵入を食い止める最前線の城塞都市になったのです。
しかも、フランスからバルセロナへ向かう主要街道はジローナを通ります。フランス軍がイベリア半島へ進軍するにしても、スペイン側が国境を守るにしても、この町を無視することはできませんでした。
実際、17世紀後半だけでもジローナは、1653年、1675年、1684年、1694年と繰り返しフランス軍の攻撃を受けました。1694年にはついに陥落し、その後約4年間、フランス軍の支配下に置かれています。
ドイツ人兵士の兵舎は、遠く離れた場所に偶然造られたのではありません。ヨーロッパの大国同士が争う境界線が、ここジローナまで移動してきた結果だったのです。
【味方の兵士も、市民には重い負担だった】
ただし、ドイツ人兵士がフランスと戦う側だったからといって、ジローナ市民から歓迎されていたとは限りません。
当時、兵士の宿泊や食料、馬、燃料などは、しばしば駐屯地の住民が負担しました。兵舎が足りなければ、一般の家に兵士を泊めなければなりません。
1723年ごろのジローナには、約5,000人の住民に対して、少なくとも3,000人もの兵士がいたとされます。ほとんど市民一人に兵士一人が加わるような状態です。兵舎の建設には、外国兵を市民の家から切り離して収容するという現実的な意味もありました。
つまり市民にとって彼らは、町を守ってくれる味方である一方、食料と金と住居を必要とする武装した外国人でもありました。歴史上の「味方」と、人々から好かれていたかどうかは、別の問題なのです。
【フランス人は、ジローナの「敵」だったのか】
ジローナとフランスとの対立は、これで終わりません。
約120年後の1808年から1809年、今度はナポレオン軍がジローナを包囲します。長期の砲撃、飢餓、疫病によって町は壊滅状態となり、現在の庭園に残るドイツ人兵舎も、この対フランス戦争の中で破壊されました。
その後、フランス軍に抵抗したジローナの物語は、「英雄的な城塞都市」という市民の記憶へ変わります。19世紀から20世紀にかけては、フランスに対する反感も、ジローナの郷土意識の一部になりました。
ただし、当時の市民全員が一つの感情を共有していたわけではありません。
フランス軍と戦った人がいる一方で、占領政府に協力した人、フランス革命の思想に期待した人、戦争を避けて生活を守ろうとした人もいました。さらに国境の両側では、戦争中であっても交易、密輸、人の往来が続いていました。
「フランス人を憎むジローナ市民」と単純化してしまうと、実際の歴史から遠ざかってしまいます。敵だったのは、目の前の生活を破壊するフランス軍であり、フランスという隣国や、そこに暮らすすべての人々が常に敵だったわけではないのです。
【そして現在は】
現在のジローナで、フランス人に対する歴史的な敵意を日常的に感じることはほとんどないでしょう。
むしろ、かつて町の identity を形づくった「フランス軍への抵抗」という記憶そのものが、かなり薄れています。2008年に行われた調査では、ジローナ市内にある対フランス戦争の記念碑について、出来事の年代を正しく答えられた市民は1割にも達しませんでした。研究者も、包囲戦の神話は現在の大衆文化からほぼ消えたと指摘しています。
フランスは、かつて何度も城壁の外から攻めてきた敵でした。
しかし同時に、商品、思想、亡命者、労働者、旅行者が行き来する、最も近い隣国でもあり続けました。この二つを同時に見ることが、ジローナとフランスの関係を理解するうえで重要です。
現在の静かな庭園の下には、単なる一つの兵舎ではなく、国境が移動し、同盟が組み替わり、ヨーロッパ中の兵士が遠い戦場へ送り込まれた時代が埋まっています。
【歴史は、現在も単純化され続けている】
こうした複雑さは、過去だけの話ではありません。
現在のカタルーニャ独立運動でも、歴史はしばしば、「カタルーニャ対スペイン」「抑圧された側と、抑圧する側」という分かりやすい構図で語られます。
もちろん、カタルーニャ独自の制度や言語が制限されてきた歴史は実際にあります。しかし、長い歴史を振り返れば、カタルーニャ人が常に一つの意思でまとまり、外から来たスペインだけと戦ってきたわけではありません。
カタルーニャの内部にも、王を支持した人、反対した人、フランス側についた人、スペイン側についた人、どちらにも関わりたくなかった人がいました。外国軍から町を守る兵士も、市民にとっては食料や住居を負担させる厄介な存在でした。
歴史の中では、味方と敵はそれほど明確には分かれません。

ところが現在の政治では、複雑な過去から都合のよい出来事だけを選び、一本の物語に並べ直すことがあります。独立派は「スペインによる抑圧の歴史」を強調し、反対側は「カタルーニャは昔から当然スペインの一部だった」と語る。
どちらも、完全な作り話というわけではありません。しかし、複雑な歴史から自分たちに必要な部分だけを取り出せば、分かりやすい代わりに、そこから多くの人と矛盾が消えてしまいます。
現在のカタルーニャ社会も一枚岩ではありません。独立を望む人も、スペインに残りたい人も、もっと自治だけを広げたい人もいます。家庭で使う言葉も、生まれた場所も、考え方も違います。それでも政治の言葉では、しばしば「カタルーニャ人はこう考えている」と、一つの主語でまとめられます。
この庭園にいたドイツ語圏の兵士を、単純に「味方」と呼び、フランス人を「敵」と呼ぶだけでは、当時の現実は見えてきません。同じように、現在のカタルーニャを「スペインに抑圧された一つの民族」とだけ捉えても、ここで暮らす人々の現実は見えなくなります。
歴史が現在に残すものは、記念碑や城壁だけではありません。複雑な出来事を、分かりやすい敵と味方の物語に変えてしまう人間の癖も、今までそのまま残っています。
さて、ここでの深堀はこれぐらいにして、庭園の左手にある階段を上がると、城壁の上へ出ます。

城壁の上を歩いていくと、やがてジロネラ塔が見えてきます。塔の内部にある螺旋階段を上ると、展望台に出ます。
螺旋階段は狭く、途中ですれ違うのは困難です。上から人が下りてこないことを確認してから上りましょう。
展望台からジローナという町を読む

螺旋階段を上ると、小さな展望台に出ます。ここからは大聖堂をはじめ、旧市街の屋根、新しい市街地、その先に続く山並みまで見渡せます。
しかし、この場所から見てほしいのは、単なる美しい眺めだけではありません。ここへ上がると、ジローナという町がなぜ現在の形になったのかが、地図を見るよりも分かりやすく見えてきます。
まず目に入るのが、旧市街の中から大きく突出している大聖堂です。
現在は一つの観光スポットとして見ていますが、かつての大聖堂は町の中に建つ一施設ではありませんでした。高台から町を見下ろし、宗教的にも視覚的にも、都市の中心であることを示す巨大な存在でした。
その周囲には石造りの建物が密集し、細い路地が斜面に沿って入り組んでいます。
これは計画的に道路を引いて造られた近代都市の姿ではありません。古代ローマ時代の城塞を核として、人々が城壁の内側やその周辺へ建物を継ぎ足していった結果です。ジローナの旧市街が歩きにくく、道が曲がり、階段が多いのは、町が観光客の移動しやすさではなく、丘の地形と防御を優先して育ったからです。
城壁は、町を眺めるために造られたのではない
現在、城壁の上は旧市街を見渡せる気持ちのよい散策路になっています。ジローナ市も、城壁上の塔を市街地と周辺地域を望む展望地点として案内しています。
しかし当然ながら、この高さは景色を楽しむために造られたものではありません。
ここは敵の接近を早く発見し、町へ入る街道や周囲の地形を監視する場所でした。特にジロネラ塔の一帯は、古代ローマ以来の旧城塞フォルサ・ベリャの東端であり、最も高い地点に位置する重要な防御拠点でした。
先ほど歩いてきたドイツ人庭園に外国兵の兵舎が置かれたことも、この高低差を見れば偶然ではなかったと分かります。
兵士たちは城壁のすぐ内側に収容され、異変があれば短時間で防御位置へ向かうことができました。庭園、兵舎跡、城壁、ジロネラ塔は、それぞれ別の見学場所ではありません。もともとは、町の東側を守る一つの軍事空間だったのです。
旧市街と新市街を分けたもの
視線を旧市街の外へ移すと、建物の並び方が途中から変わっていることにも気づきます。
丘の上と斜面に密集する旧市街に対して、その外側には、比較的平らな土地へ広がった新しい市街地が見えます。道路も広く、建物の並びも旧市街より整然としています。
現在は一続きの町に見えますが、旧市街と新市街は、同じ時代に同じ考え方で造られたものではありません。
長い間、ジローナの人々は城壁に守られた限られた範囲に暮らしていました。しかし軍事的な防御施設としての城壁が役割を失うと、町は城壁の外にある平地へ広がっていきます。
つまり、この展望台から見えているのは、「城壁の中で守られた古いジローナ」「城壁を越えて外へ広がった新しいジローナ」という、異なる時代の二つの町です。
美しい旧市街は、暮らしにくい町でもあった
現在、旅行者は石造りの建物や狭い路地を「中世らしい美しい風景」として眺めます。
しかし、城壁に囲まれた町で暮らした人々にとって、土地が限られていることは必ずしも魅力ではありませんでした。建物は密集し、道路は狭く、日当たりや風通しもよくありません。人口が増えても、簡単に町を外へ広げられないため、同じ場所を使い続けるしかありませんでした。
私たちが現在「よく保存された旧市街」と呼んでいるものは、当時の人々が理想として保存した景観ではありません。
防御の必要から城壁内に閉じ込められ、古い建物を壊して一から造り直す余裕もなく、何世代にもわたって使い続けた結果でもあります。
上から眺めると美しい旧市街も、その中で暮らす側から見れば、坂道、階段、狭い路地、湿気、運搬の難しさを抱えた場所でした。
観光地の美しさと、そこで暮らした人々の便利さは、必ずしも同じではないのです。
見えている町は、完成した町ではない
私たちは展望台から町を眺めると、眼下に一つの完成した風景が広がっているように感じます。
しかし実際には、古代ローマの城壁、中世の大聖堂、近世の軍事施設、城壁外へ広がった近代市街、さらにその外側の現代の住宅地が、一つの視界の中に重なっています。
ジローナは、ある時代に計画され、完成した町ではありません。
守るために閉じ、人口が増えると詰め込み、軍事的な意味を失うと外へ広がる。その時々の事情によって形を変えてきた町です。
展望台から見えるのは、きれいに保存された一つの歴史都市ではなく、異なる時代が互いの上へ積み重なった現在のジローナなのです。
眼下には、この先へ延びる城壁も見えています。
ここから城壁の上を約50メートル歩き、景色を楽しんだところで、再び同じ道を引き返します。城壁はさらに先まで続いていますが、最後まで歩くと、次に訪れるユダヤ人街から大きく離れてしまいます。
展望台へ戻ったら螺旋階段を下り、ドイツ人庭園の入口まで戻りましょう。
【サン・ペレ・デ・ガリガンツ修道院→大聖堂→ここまでの地図】
城壁を下りて、ユダヤ人街へ


カテドラルの大階段下と並んで、ここもジローナを代表する写真スポットです。電線や派手な看板がほとんどなく、石壁と階段だけが続く景色は、まるで中世そのものです。
1枚目の写真は階段の上から、続く2枚は下から撮影したものです。同じ路地でも、立つ位置やカメラの角度を少し変えるだけで、まったく違った雰囲気になります。縦長の構図で石壁の高さを強調すると、インスタ映えする写真も撮りやすいでしょう。
さてここからが深堀です…
石の路地を見る前に知っておきたいこと
ここは、どのガイドブックにも細い階段と石壁が続く風景は、中世の面影を残す美しい撮影場所として紹介されています。しかし、ここを単なる「中世らしい路地」として通り過ぎると、この地区がなぜ生まれ、なぜ住民が消えたのかは見えてきません。
ジローナには、少なくとも9世紀末にはユダヤ人が暮らしていました。彼らは一時的に滞在した外国人ではなく、何世代にもわたって町に住み、商業、医学、学問、行政などを通して地域社会を支えた人々です。
しかし中世のキリスト教社会で、ユダヤ人は単に「別の宗教を信じる人」と見られていたわけではありません。
キリスト教はユダヤ教から生まれ、聖書も預言者も共有しています。それにもかかわらず、ユダヤ人はイエスを救世主として受け入れませんでした。そのためキリスト教徒からは、真理を知る立場にありながら、それを拒み続けている人々と見なされました。
近い存在だからこそ、完全な他者として切り離すこともできない。しかし、同じ共同体として受け入れることもできない。
ユダヤ人は、この矛盾した位置に置かれていました。
彼らが一つの地区に集まって暮らしたのは、シナゴーグ、宗教教育、食事の戒律、相互扶助など、共同体として生活する必要があったからです。当初はキリスト教徒と隣接して暮らすこともありましたが、時代が進むにつれて区別は隔離へ変わり、ユダヤ人街は次第に閉ざされた空間となっていきました。
ユダヤ人は王権に保護され、税収や金融、行政の面で必要とされました。その一方で、不況、疫病、戦争などで社会が不安定になると、疑いと怒りを向けられる存在にもなりました。
必要とされながら、仲間とは認められない。
この不安定な関係が、14世紀末以降の暴力と強制改宗へつながります。1391年にはジローナのユダヤ人街も襲撃され、多くの人が改宗を迫られました。ところが改宗した人々も、今度は「表面だけキリスト教徒になったのではないか」と疑われます。
そして1492年、改宗しないユダヤ人に国外退去が命じられ、ジローナの共同体は姿を消しました。現在歩いているのは、異国から来た人々が一時的に暮らした地区ではありません。
長い間この町の一部だった人々が、最後には「ここには属さない」とされた場所です。石壁と階段が美しく残っているからこそ、その風景から消えた人々の存在は、かえって見えにくくなっています。
この歴史は、現在と無関係なのか?
ジローナのユダヤ人街を歩いていると、1492年の追放は、はるか昔に終わった出来事のように見えます。
しかし、人が何世代も暮らした町から、ここは、もうあなたたちの場所ではないと告げられる歴史は、過去だけのものではありません。
ヨーロッパでは、ユダヤ人への宗教的偏見と迫害が中世以後も形を変えて続き、20世紀にはホロコーストという大量虐殺にまで至りました。その経験から、他国の保護に頼るのではなく、ユダヤ人自身の国家が必要だという思想が強まります。
こうして生まれたのがイスラエルです。
しかし、その建国の場所だったパレスチナには、すでに別の人々が暮らしていました。1948年の戦争では、多くのパレスチナ人が家と土地を失い、故郷へ戻れない難民となりました。
ヨーロッパで「ここに属さない」とされたユダヤ人が、安全に属することのできる土地を求めた。その一方で、その土地に暮らしていたパレスチナ人が、今度は自分たちの帰る場所を失ったのです。
二つの歴史は同じではありません。中世スペインの追放と、現代のイスラエル・パレスチナ問題を、そのまま重ねることはできません。しかし、人間が土地と共同体への帰属を奪われるという点では、無関係とも言えません。

さらに注意しなければならないのは、「ユダヤ人」「イスラエル人」「イスラエル政府」を一つにまとめないことです。同じように、「パレスチナ人」「ハマス」「武装勢力」も同じではありません。
中世のキリスト教社会は、一人ひとりのユダヤ人を見る代わりに、「ユダヤ人」という大きな集団を作り、そこへ恐怖や疑いを投影しました。現在も私たちは、ニュースの中で、イスラエル人
- パレスチナ人
- ユダヤ人
- イスラム教徒
という大きな言葉を使い、一人ひとりの違いを消してしまいます。その瞬間、私たちは中世の人々とまったく別の場所に立っているとは言えなくなります。この狭い路地が現在の私たちに問いかけるのは、昔の人々がどれほど残酷だったか、ということだけではありません。
私たちもまた、複雑な人間を一つの集団へまとめ、敵と味方の物語に変えていないか。それを考える場所でもあるのです。
ランブラ・デ・ラ・リベルタ(テラスは家の延長線)

ランブラ」は、もともとアラビア語の「砂地・砂原」に由来する言葉です。
そこから、普段は乾いていても、激しい雨が降ると水が流れる河床を意味するようになりました。こうした古い水路や河床の一部が、後に並木のある散歩道や大通りとして整備されたことから、スペイン各地に「ランブラ」と呼ばれる通りが生まれました。
バルセロナのランブラス通りも、かつて城壁の外側を流れていた水路の跡です。では、すぐ横に大きなオニャール川が流れているジローナのランブラは、どうしてここにあるのでしょうか?。
ジローナのランブラは、バルセロナのように別の水路を埋めて造られた通りではありません。
12世紀頃、現在のランブラがある場所は、市場の広場からオニャール川の砂地へと続く空間でした。その後、13世紀に市場を開く場所として整備され、中世以来、商売をする人と買い物に来る人が集まる街の中心として発展してきました。
つまり、ジローナのランブラも川と無関係ではありません。ただし、川が消えて通りになったのではなく、現在も横を流れるオニャール川の河岸に生まれたランブラなのです。
ところで、日本からスペインへ来た旅行者が驚く光景の一つに、街の人たちが、とにかくよく座って話していることがあります。朝はカフェ。昼もカフェ。夕方になると広場へ出て、夜にはテラス席が埋まります。
コーヒー一杯を前に、何時間も会話を続ける人も珍しくありません。スペインでは、おしゃべりが最大の娯楽の一つだと言ってもよいでしょう。日本人の目には、「いったい何をそんなに話すことがあるのだろう?」と映るかもしれません。
しかし、こちらでは、それが特別な過ごし方ではなく日常です。彼らにとって街は、ただ通り抜けるための場所ではありません。家の居間の延長が、広場であり、ランブラであり、テラス席なのです。
だからランブラには、特別な催しがなくても人が集まります。何か用事があるから来るのではありません。人と会い、話をし、同じ時間を過ごすこと自体が目的なのです。
ジローナのランブラ・デ・ラ・リベルタには、バルセロナのランブラス通りのような絶え間ない騒がしさはありません。その分、地元の人がベンチで話し込み、テラス席でゆっくりコーヒーを飲む、飾らない日常の風景がよく見えます。
観光名所として歩き抜けるだけでなく、一度ベンチに腰掛け、人々の様子を眺めてみてください。すると、この通りの魅力は歴史的な建物だけではなく、「街で時間を楽しむ」というスペイン人の暮らし方そのものにあることが見えてきます。
【一杯のビールで何時間も】
スペインのバルやカフェを見ていると、日本人が驚く光景があります。それは、小さなビール一本やコーヒー一杯だけで、一時間、時にはそれ以上も話し続ける人たちが珍しくないことです。
日本では、飲み終われば店を出るという感覚があります。当然のことですがビールは温かくなるしコーヒーは冷めますが、しかし、スペインでは飲み物そのものより、その場で過ごす時間に価値があります。
私も30年以上スペインで暮らしていますが、温かいビールを後生大事にちびちび飲む(決して2本目、2杯目は頼まない)この光景は毎日のように目にします。
飲み物は喉を潤すためというよりも友人と向き合い、会話を楽しみ、同じ時間を共有するためのきっかけでもあります。だから、スペインのテラス席では回転率よりも、ゆっくり時間を過ごす人々の姿が当たり前の風景になっています。
エッフェル橋――鉄の橋と、川に張り出した家々

橋の上からは、オニャール川沿いに並ぶカラフルな建物群を眺めることができます。建物が川にせり出すように並ぶ姿は独特で、特に風のない日には、色鮮やかな外壁が川の水面に映り込み、ジローナらしい美しい景色を楽しめます。
また、橋の中央付近からは、ジローナ大聖堂とサン・フェリウ教会の2つの教会を一枚の写真に収めることができ、人気の撮影スポットにもなっています。ジローナを訪れたら、ぜひ一度は立ち寄りたい場所です。
なお、これらの建物は自由に色を塗り替えられるわけではなく、景観保護のため外壁の色にも一定の制限があります。そのため、現在見られる統一感のあるカラフルな街並みは、長年にわたり守られてきたジローナの景観そのものでもあります。

オニャール川に架かる赤い鉄橋は、エッフェル塔で知られるギュスターヴ・エッフェルの会社によって造られ、1877年に開通しました。パリのエッフェル塔が完成するよりも前の仕事です。
橋を渡る際には、川の景色だけでなく、頭上に広がる鉄骨も見てみましょう。
この橋が造られた時代には、現在のような電気溶接はまだ一般的ではありませんでした。鉄材は、熱したリベットと呼ばれる鋲を穴へ差し込み、反対側を叩き潰して固定しています。冷えたリベットが縮むことで、鉄板同士が強く締めつけられる仕組みです。
表面に並ぶ丸い突起は、その接合部分です。
また、鉄材が三角形を繰り返しているのも装飾ではありません。三角形は変形しにくいため、細い部材でも橋にかかる重さを分散できます。少ない材料で軽く、強い構造を作るという、エッフェルの鉄骨建築に共通する考え方です。
橋の中央からは、オニャール川沿いに並ぶカラフルな建物群を眺めることができます。
現在ではジローナを代表する景色ですが、川側はもともと家の正面ではなく、台所や物置、洗濯場などが置かれた生活の裏側でした。城壁内の限られた土地を少しでも広く使うため、建物が川へ張り出すように増築され、現在の不規則な外観が生まれました。
外壁の色も、住民が完全に自由に決められるわけではありません。現在は景観保護の規定があり、川沿いの建物には周囲と調和する土系の色調が求められています。
ただし、現在の景色が昔からそのまま残っているわけでもありません。
生活の必要から継ぎ足された建物を、後の時代が「ジローナらしい景観」として見いだし、修復し、色を整えてきました。
旅行者が眺めているのは、保存された古い町だけではありません。
生活の裏側が、長い時間をかけて町を代表する表側へ変わった景色なのです。
橋の中央付近からは、ジローナ大聖堂とサン・フェリウ教会を一枚の写真に収めることもできます。赤い鉄骨を額縁のように入れて撮影すると、この場所らしい一枚になります。
『この記事がお役に立ち、バルセロナでフラメンコ鑑賞も予定されていましたら、予約代行をご利用いただけるとうれしく思います。ご依頼が、このサイトの記事を今後も書き続けるための応援になります。』
記事は取材時点のものです。現在とは記事の内容が異なる場合もありますのでご了承ください。間違った情報、また有用新情報、分かり難い点や質問等ございましたら情報共有いたしますので、サイト内の「バルセロナ観光情報掲示板」に書き込んでください。
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この記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパを旅し1997年よりバルセロナに在住。 記事最終更新 2026.07.28 |
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