現在、タラゴナの円形闘技場に立つと、まず目に入るのは地中海です。海を背景に残る石造りの観客席は美しく、タラゴナを代表する景色の一つになっています。
しかし約2000年前、ここへ人々が集まった目的は景色を見るためではありませんでした。この場所で行われていたのは、剣闘士の試合、猛獣を使った見世物、そして公開処刑です。人が傷つき、ときには死ぬ。それを大勢の観客が見ていました。
【ローマ時代当時の建物と試合の再現映像】
2万5000人を覆った巨大な日除け

現在残された、円形闘技場には屋根がありませんが当時、真夏の地中海で何時間も見世物を見るとなれば、観客にとって日差しは大問題です。そこで使われたのが「ウェラリウム」と呼ばれる巨大な布製の日除けで、この闘技場では赤い線で示したように、屋根の布を外側で引っ張り中央に向かって放射状に引っ張ってました。
具体的には…

外壁の上には多数の柱が立てられ、そこからロープを張り巡らせ、その上に巨大な布を展開します。現在のスタジアムの開閉式屋根とはまったく違い、仕組みとしては巨大な船の帆を空中に張ると考えた方が分かりやすいでしょう。
布は競技場全体を完全に覆うのではなく、中央部分を開けたまま、主に観客席へ影を落とします。風を受ける巨大な布を何本ものロープで操るため、その操作には船の帆を扱うのと同じような技術が必要でした。
【用途を忘れられた石が、教会の壁になった】

円形闘技場の近くに建つミラクル教会の壁を見ると、中央に丸い穴の開いた石が埋め込まれています。
この石はもともと、円形闘技場の観客席を覆っていた巨大な日除け「ウェラリウム」を支える柱を通すために使われていたものです。闘技場が使われていた時代には、穴にもきちんとした役割がありました。
ところが円形闘技場が使われなくなり、後世になると、その仕組みも役割も忘れられていきます。残された巨大な建物は石材を取る場所となり、切り出された石は新しい建物の材料として再利用されました。
この穴の開いた石もその一つです。教会を造った人々にとっては、なぜこんな場所に穴が開いているのか全く分からなかったはずですが、それでも石材として使えるため、そのまま壁の中へ組み込まれました。
2000年前には巨大な日除けを支える設備の一部だった石が、その役割を失った後は教会の壁になる。現在では、その穴が逆に「この石がどこから来たのか」を教えてくれています。
なぜ剣闘士は全身を鎧で覆わなかったのか

剣闘士の防具を見ると、立派な兜やすね当て、腕を守る防具を身につけている一方で、腹や太腿など意外なほど広い部分がむき出しになっています。
これは単に防具が未発達だったからではありません。盾で守る場所、防具で守る場所、そしてあえて重い鎧をつけない場所を組み合わせ、動きやすさとのバランスを取っていました。
さらに剣闘士の戦いは、戦場で敵をできるだけ早く殺すための戦闘とは違い、大勢の観客に見せる競技でもありました。防具で完全に身を固めてしまえば攻撃が決まりにくくなり、反対に防具が少なすぎれば戦いがすぐ終わってしまう。
剣闘士ごとに異なる武器と防具の組み合わせには「戦わせながら、見世物として成立させる」という面もあったのです。
【観客から見えない「舞台裏」が地下にあった】

現在のタラゴナの円形闘技場を見ると、中央を十字に横切るような深い溝が残っています。一見すると排水のための溝のようにも見えますが、これは闘技場の地下施設の跡です。
ローマ時代にはこの上に木製の床が張られ、さらにその上を砂で覆った競技場が広がっていました。つまり、現在見えている地下部分は、本来なら観客からは見えない場所だったのです。
ここで少し面白いのが、現在でも競技場を意味する「アリーナ(arena)」という言葉です。もともとはラテン語で「砂」を意味する言葉で、スペイン語でも今なお arena は「砂」という意味で使われています。
剣闘士たちが戦う床には砂が敷かれていたため、やがて砂を敷いた競技場そのものを arena と呼ぶようになり、それが現在の「アリーナ」という言葉につながりました。
その床の下には、剣闘士や猛獣、見世物に必要な道具などを待機させる空間があり、必要に応じて地上のアリーナへ送り出す仕組みが造られていました。現在の劇場やコンサート会場、例えば紅白歌合戦で舞台の下からせり上がって来る、あの小林幸子をイメージしてみてください。

さていよいよ、闘技の開始時間になりました。
そこへ小林幸子、もとい、猛獣が突然、地下からアリーナへ姿を現します。何もなかった床からライオンなどの猛獣が現れれば、観客席からは大歓声が上がったことでしょう。
もちろん、当時は電動のエレベーターなどありません。地下では人力で巻き上げ機を動かし、猛獣を入れた檻をゴンドラのように持ち上げていました。華やかな見世物の足元では、大勢の人間が舞台装置を動かしていたのです。
ところで、そんな光景に大歓声を上げていたローマ人は、現代人より野蛮で残酷な人々だったのでしょうか。そう考えてしまえば簡単ですが、それだけでは、これほど巨大な円形闘技場がローマ帝国各地に造られ、多くの人々を集め続けた理由までは見えてきません。
少し見方を変えて、ここでは当時の人々にとって円形闘技場がどんな場所だったのかを見てみましょう。
円形闘技場は巨大な娯楽施設だった

剣闘士の試合は、現在の感覚では決闘場や処刑場のように想像されがちですが、実際には大勢の観客を集める娯楽でもありました。
では、少し想像しやすくするために、現代の「さいたまスーパーアリーナ」に置き換えてみましょう。
ここでは人気アイドルのコンサートが開かれれば何万人もの観客が集まり、別の日にはPRIDEのような格闘技が行われ、観客が選手の勝敗に熱狂します。同じ巨大な建物が、内容を変えながら大勢の人々を楽しませる場所として使われています。
ローマの円形闘技場も、基本的な役割はこれに近いものでした。剣闘士の試合の日もあれば、猛獣を使った見世物の日もある。特別な催しが開かれ、大勢の市民が集まり、人気の剣闘士は現代の格闘家やスポーツ選手のようなスターにもなりました。
ただし、現代のアリーナとの間には決定的な違いがあります。ローマでは、この娯楽施設が公開処刑の場所でもあったことです。
午前には猛獣を使った見世物、昼には犯罪者の処刑、そして午後には剣闘士の試合といった具合に、私たちならまったく別のものと考える「娯楽」と「刑罰」が、一日のプログラムの中に並ぶことさえありました。
もし現代のさいたまスーパーアリーナで、コンサートや格闘技と同じように公開処刑まで行われていたと考えれば、ローマの円形闘技場がどのような場所だったのか、少し実感しやすくなるかもしれません。
現代の私たちには理解しにくい感覚ですが、ここから見えてくるのは「2000年前の人間は、私たちとはまったく違う人間だったのか」という疑問です。時代や社会の仕組みは大きく違っても、人間そのものまで別物だったのでしょうか。ここから少し、その中へ入ってみます。
【カミムラ豆知識 | 映画 グラディエーター は本当?】

私たちが「古代ローマの闘技場」と聞いて思い浮かべるイメージは、映画『グラディエーター』によって作られた部分も大きいでしょう。もちろん史実をもとにしていますが、映画として面白くするために一部は誇張されています。剣闘士が毎回死ぬまで戦ったわけではなく、実際の闘技場では猛獣狩りや公開処刑など、さまざまな見世物が行われていました。
なぜ処刑を大勢に見せたのか

刑罰は、人目につかない場所で行うこともできます。それなのに、なぜわざわざ何千人もの人を集め、その前で処刑したのでしょうか。
そこには「罰する」こととは別に、「見せる」ことの意味がありました。
法律に逆らえばどうなるのか。社会の秩序から外れた者がどう扱われるのか。それを大勢の人々に実際に見せることで、国家の力と秩序を目に見える形で示したのです。
そして、これはローマだけの特殊な習慣ではありません。日本をはじめ世界各地で、公開処刑は近代になるまで珍しいものではなく、処刑だけでなく、罪人やその遺体を人目にさらすこと自体が刑罰の一部とされることもありました。
つまり、人々の前で刑罰を執行するという考え方は、ローマ人だけが持っていた残酷な発想ではなく、長いあいだ多くの社会で使われてきた普通の統治の方法でもあったのです。そう考えると、タラゴナの円形闘技場で行われた公開処刑も、「残酷だったローマ人」という一言だけでは説明できなくなってきます。
実際、日本や世界の歴史を見ても、公開処刑が行われたり、処刑後の遺体が街道沿いや広場、河原など人目につく場所にさらされた例は数多くあります。
【日本や世界にもあった、見せる刑罰】
- 日本
- 石川五右衛門 — 1594年、京都・三条河原で処刑
- 豊臣秀次の妻妾・子女ら 三条河原で多数が処刑
- 石田三成 — 関ヶ原の戦い後に斬首され、首が京都で晒され
- 近藤勇 — 1868年に板橋で斬首され、首は京都・三条河原に晒され
- 海外
- マリー・アントワネット — 1793年、パリでギロチンにて公開処刑。
- ルイ16世 — 同じく1793年、革命広場でギロチンにて公開処刑。
- ジャンヌ・ダルク — 1431年、ルーアンで火刑。
- トマス・モア — 1535年、ロンドンで斬首。
無料の見世物を誰が用意したのか
そして、もう一つ重要なのがお金です。
これほど巨大な施設で行われる見世物には、当然ながら大きな費用がかかります。剣闘士を用意し、猛獣を遠くから運び、大規模な催しを開催する、その費用を負担したのは皇帝や都市の政治を担う役職者、裕福な名士などでした。。
観客にとっては無料で楽しめる巨大イベントでしたが、それを提供する側にも意味がありました。大勢の市民に娯楽を提供することは、自らの富と力を示すと同時に、人気や名声を得ることにもつながります。また、富や地位を持つ者が社会のために金を使うことは、ローマ社会では有力者に期待される役割の一つでもありました。
そして、大衆に食料と娯楽を与えることで、政治への関心をそらし不満を抑える。そんなローマ社会を風刺した言葉が、後世まで残っています。一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。あの「パンとサーカス」です。
ただし、これを単純に「支配者が民衆を愚かにするために娯楽を与えた」と考えてしまう、それだけでは少し話を単純化しすぎでしょう。市民は娯楽を得る、有力者は名声や支持を得る。そこには一方的に「与える側」と「操られる側」だけでは説明できない関係もありました。
現代でいえば、国の生活支援のための給付金や補助金にも似た面があります。受け取る側の国民には実際の利益があり、実施する側の政府、政治家には政治的な評価が返ってくる。単純に騙す側と騙される側がいるのではなく、双方がそれぞれ利益を得る、持ちつ持たれつだからこそ、この関係は成り立つのです。
【なぜ有力者がお金を出した?】
見世物に大金を出すことは、有力者にとって自分の「気前の良さ」を市民に見せる絶好の機会でもありました。現代の日本でいえば、地元の有力企業や資産家が祭りや花火大会のスポンサーになるのに少し似ています。
ただしローマでは、もっと直接的です。費用を出した人物自身が目立つ特等席に座り、「今日の見世物を提供しているのはこの人だ」と大勢の観客に知られる。市民を楽しませることが、そのまま本人の名声や人気、政治的な支持にもつながりました。
闘技場は見世物を見る場所であると同時に、有力者が自分を売り込む巨大な舞台でもあったのです。
では、現代人は違うのか

ここまで来ると、少し嫌な疑問が残ります。私たちはローマ人のように、人が殺されるところを競技場へ見に行くことはありません。
しかし、ボクシングなどの格闘技はもちろん、激しい身体のぶつかり合いがあるアメリカンフットボール、サッカーの激しい攻防など、多くのスポーツには、対立、衝突、危険、勝敗という、人間を強く引きつける要素が含まれています。
映画も同じです。アクション映画、戦争映画、犯罪映画、サスペンスなど、暴力や危険を取り除いてしまえば成り立たない作品は数え切れません。事故、戦争、犯罪の映像にも、見てはいけないと思いながら目を向けてしまうことがあります。
もちろん、現代のスポーツや映画と、実際に人が殺されるローマの剣闘士試合が同じものでないことは、子どもでも分かります。社会も法律も、人権についての考え方もまったく違います。それでも私たちは、なんとなく気づいてもいます。
人間は今でも、危険や対立、そして暴力に強く引きつけられる部分を持っているのではないのか?。
だとすれば、「人間はなぜ暴力を見ることに引きつけられるのか」という問いは、2000年前のローマ人だけの話ではありません。タラゴナの円形闘技場は、ローマ人の残酷さを眺めるだけの遺跡ではありません。
石造りの観客席に座っていた人々を「残酷な昔の人」と切り離すのではなく、もし自分が2000年前のタラコに生まれていたら、この場所へ見に来なかったと言い切れるだろうか?みんなと一緒に歓声を上げて盛り上がっていなかったろうか?。
そう考えてみると、この遺跡は少し違って見えてきます。飛行機にも乗るし、手にはスマホと言う最新のテクノロジーをもちながら、中身は2000年前とそう変わらないのでは??
闘技場から聖地へ

*よく見ると十字架の形をしている
タラゴナの円形闘技場を上から眺めると、楕円形の競技場の中央に、明らかにローマ時代とは形の違う建物の跡が見えます。教会です。なぜ、人を戦わせ、猛獣を放ち、公開処刑まで行われていた円形闘技場のど真ん中に、後世の人々は教会を建てたのでしょうか。
その理由は、西暦259年に起きた一つの処刑にあります。
当時のタラコには、すでにキリスト教徒の共同体がありました。その指導者だった司教フルクトゥオソと、助祭のアウグリオ、エウロギオの3人が捕らえられ、この円形闘技場で火刑に処されました。ローマ皇帝ウァレリアヌスによるキリスト教徒迫害の時代のことです。
その日、円形闘技場はローマ側から見れば、いつものように国家の力を示す場所でした。罪人を大衆の前に出し、処刑する。前章で見た「見せる刑罰」です。
ところが、その処刑された側の人々にとっては、まったく違う意味を持つ出来事になりました。3人は犯罪者として忘れ去られるのではなく、殉教者として記憶されるようになったのです。
それから約300年。キリスト教が公認され、やがてローマ世界の中心的な宗教となった後、6世紀ごろ、この円形闘技場のアリーナにキリスト教のバシリカが建てられます。
しかも場所は偶然ではありません。フルクトゥオソたちが殉教したと考えられた場所に建てられました。これは非常に象徴的です。かつて、ローマ国家がキリスト教徒を処刑した場所だったところが、今度は、そのキリスト教徒を聖人として祈る場所になったのです。
建物が一つ増えただけではありません。場所の意味そのものが、ひっくり返っています。話はここで終わりません。
12世紀になると、初期キリスト教のバシリカの上に、今度はロマネスク様式のサンタ・マリア・デル・ミラクレ教会が建てられます。つまり、この場所には、
ローマの円形闘技場
↓
殉教者を記念するキリスト教バシリカ
↓
中世の教会
↓
現在、廃墟となった教会
と、時代の違う建物が同じ場所に重なっています。タラゴナの円形闘技場が少し奇妙に見えるのは、そのためです。
普通ならローマ遺跡だけをきれいに見せたくなるところですが、ここでは後世の建物までアリーナの中央に残っています。しかし、この「邪魔に見えるもの」こそ、この遺跡の面白い部分です。
さらに面白いのは、ローマの円形闘技場を覆うように建てられた教会も、永遠には続かなかったことです。サンタ・マリア・デル・ミラクレ教会もやがて役割を失い、現在ではその壁の一部が遺構として残るだけになりました。
ローマ競技場
*画像をクリックっすると拡大できます
タラゴナのローマ遺跡の中でも、少し想像しにくいのがサーキット(サーカス)です。現在は建物の下や地下通路の一部が残っているだけですが、ローマ時代には、ここで大勢の観客が戦車競走に熱狂していました。
戦車競走は、単に馬車が速さを競うだけの競技ではありません。速い馬、腕のよい騎手、危険な追い越し、接触、転倒。そして何より、自分が応援するチームが勝つか負けるか。この仕組みは、現代のスポーツと驚くほどよく似ています。
【なぜサーキットの中央に、こんなものが並んでいたのか?】
*画像をクリックっすると拡大できます
現在の競馬場や自動車サーキットを想像すると、コースの中央にオベリスクや神々の像、祭壇、噴水が並んでいる光景は少し不思議に見えます。
しかし、ローマ時代のサーカスは単に戦車の速さを競うだけの場所ではありませんでした。中央部分には周回数を知らせる実用的な設備がある一方、神々の像や祭壇など宗教に関係するものが置かれ、さらに巨大なオベリスクが建てられることもありました。
特にローマのチルコ・マッシモには、征服したエジプトから運んできた本物のオベリスクまで建てられています。競走にはまったく必要のない巨大な石柱ですが、何万人もの市民が集まる場所に置けば、ローマ帝国の力や豊かさを見せる格好の舞台にもなります。
つまりサーカスの中央は競走のための設備だけでなく、宗教、装飾、そして帝国の力を見せるものまでが一緒に並ぶ場所でもあったのです。
※ただし、中央に何が置かれていたかは都市や時代によって異なり、タラゴナのサーカスにこの図と同じものがすべて存在したという意味ではありません。
【ローマ時代当時のレース様子の再現映像】
当時の戦車レースの様子を再現した映像です。最後には、現在のタラゴナの街に残る遺跡と、失われた部分を復元した映像が重なり、かつてサーキットが街のどこまで広がっていたのかを見ることができます。
※動画では6チームのように描かれていますが、当時の主要なチーム(ファクティオ)は、赤・白・青・緑の4つでした。なお、4チームだからといって、レースに4台の戦車しか出なかったという意味ではありません。一つのチームから複数の戦車が出場することもありました。
【カミムラ豆知識】

ローマの戦車競走場は、ラテン語でCircus(キルクス)と呼ばれていました。語源は「円」「輪」を意味する言葉につながり、細長い競走路をぐるぐると周回することから、巨大な戦車競走場をCircusと呼ぶようになりました。ここから現在の英語のcircle(サークル・円)や circuit(サーキット・周回・回路)などにもつながる言葉が生まれています。では、なぜ現在の「サーカス」も同じ言葉なのでしょうか?。
近代のサーカスは、円形の会場で馬術などの見世物を行う興行として発展しましたが、その円形の興行場が古代ローマのCircusになぞらえて「circus」と呼ばれるようになり、やがて空中ブランコ、曲芸、道化師などを含む現在のサーカスを意味するようになりました。
つまり、古代ローマのCircus=戦車が周回する巨大競技場から、現代のcircus=円形会場でさまざまな見世物を行う興行へと、言葉の意味が変化していったのです。ちなみに自動車レースで使うcircuit(サーキット)も、「一周する、ぐるっと回る」という正に同じ系統の言葉で、鈴鹿サーキットも起源は二千年前のローマに端を発したと言えます。
色で分かれたチーム

ローマの戦車競走には、赤、白、青、緑というチームがあり、騎手や馬はそれぞれのチームに所属して競走しました。世界最大級のニューヨークのメトロポリタン美術館に残る、ローマ時代のメダリオンにも緑組の勝者が描かれています。
観客にも当然ひいきのチームがあり青を応援する者、緑を応援する者。それぞれの贔屓が勝てば喜び、負ければ悔しみ、有名な騎手には今と同じでファンがつき、スター選手のような存在になりました。
また、戦車競走を支えるために、馬の管理、鍛冶、医療、厩舎などを含む数千人が働く大きな産業まで形成されていました。
そう思うと、遥か2000年前の話なのに、仕組みだけを見ると現代のプロスポーツとそれほど遠くありません。
馬車が走っているだけなのに、なぜ興奮するのか

冷静に考えると不思議です。
自分が馬を走らせているわけでもありません。勝ったからといって、自分の生活が直接よくなるわけでもありません。それなのに、自分が応援しているチームがゴールへ近づくと立ち上がり、負ければ腹を立てる。これは現在のサッカーでも同じです。
バルセロナの人はFCバルセロナの選手ではなくても、「私たちが勝った」と言います。ローマの戦車競走でも、おそらく似たことが起きていて人間はチームを選ぶと、そのチームの勝敗を自分のことのように感じることがあります。
競技場には何万人もの同じ色を応援する人間が集まり、一斉に叫ぶ。そこで生まれる興奮は、競走そのものだけではありません。大勢の人間と同じものを応援しているという一体感も、大きな快感だったのでしょう。
危険だからこそ面白かった

戦車競走は非常に危険な競技でもありました。複数の戦車が高速で走り、狭いカーブへ一斉に突っ込む。接触すれば戦車が壊れ、御者が投げ出されることもあります。古代ローマの競走には、事故や死が常に隣り合わせにありました。
つまり観客は、速さ、技術、勝敗、そして危険を同時に見ていたことになります。これも完全に過去のものではありません。オートバイのレースでも、格闘技でも、スキーの滑降でも、競技から危険を完全に取り除いてしまえば、どこか魅力が失われる部分があり、毎年夏に行われるスペインの牛追い祭り、命の危険を承知で牛の前を走り抜けるスペイン人達こそ、正にその典型とも言えます。
もちろんスポーツ選手やオートバイレース、牛追いで走る人達が傷つくことを望んでいるわけではありません。それでも、失敗すれば大きな代償がある状況で、人間がぎりぎりまで能力を使う姿に私たちは引きつけられます。ローマ人も同じだったのかもしれません。
【カミムラ豆知識】

ちなみに、バルセロナは、ヨーロッパでも特にバイクの多い街として知られています。冬でも比較的温暖で、一年を通してバイクに乗りやすい気候であることが、その大きな理由の一つです。
ただ、それだけではないようにも感じます。スペインでは、スピードや競争、少し危なっかしいもの、スリルのあるものを楽しむ文化が異常なほど強く、バイクの多さ、異常なほどバイク好きにも、そんな気質がどこか関係しているのかもしれません。
賭ければ、さらに自分事になる

戦車競走では、観客による賭けも盛んに行われていました。
ただし、現在の競馬のように国が馬券を売り、オッズを管理する「公営ギャンブル」があったわけではありません。観客同士などで、自分のひいきの騎手やチームに金を賭ける、もっと私的な賭けに近かったものです。
自分の応援する騎手やチームに金を賭ければ、競走はさらに自分自身の問題になります。単なる見物だったものが「勝ってほしい」から、「勝ってもらわなければ困る」へ変わる。
皇帝にとっても重要な場所だった

サーカスは観客だけの場所ではありません。皇帝や地方の支配者にとっても、大勢の民衆が一か所に集まる重要な空間でした。
競走を開催し、娯楽を提供する。皇帝が姿を見せれば、群衆は皇帝を直接見ることもできます。つまり支配する側とされる側が、巨大な競技場の中で同じ出来事を共有していました。ここにも前章の円形闘技場と同じ構造があります。
市民は娯楽を得る。
支配者は人気や名声を得る。
国家は巨大な群衆を一つの場所に集める。
サーカスはスポーツ施設であると同時に、政治的な空間でもありました。
2000年前のスタジアム

タラゴナのサーカス跡を歩いても、現在は戦車も馬も観客もいません。石の通路だけを見ていると、巨大な古代建築にしか見えません。
しかし、ここに何万人もの人が集まり「青だ」「緑だ」と自分のひいきのチームを応援し、有名な騎手の名前を叫び勝敗に一喜一憂していたと考えると、急に距離が縮まります。
戦車競走には赤・白・青・緑のチームがあり、騎手は所属するチームの色を身につけました。観客にも「自分は青組」「私は緑組」という強い帰属意識があり、現在のサッカーでひいきのクラブの色を身につけて応援するのとよく似ています。
なので、2000年前の人間だから熱狂したのではありません。人間は今でもチームを作り、色を身につけ、スターを応援し、大勢で勝敗を見ることが好きなんです。
サーカスから戦車と馬が消えただけで、人間を熱狂させる仕組みそのものは、現在の巨大スタジアムにもかなり残っているのかもしれません。
競技場は消えたのか?
タラゴナのサーカス(サーキット)を見学すると、少し不思議に感じます。ローマ時代には巨大な戦車競走場だったはずなのに、現在目の前にあるのは地下へ続く石造りの通路や、わずかに残ったアーチです。
競技場はいったい、どこへ消えてしまったのでしょうか。実は、完全に消えたわけではありません。その上に町ができてしまったのです。
巨大な競技場の上に、現在の町がある

ローマ時代のタラコのサーカスは、現在の旧市街の一部を占める巨大な施設でした。しかしローマ帝国が衰退すると、何万人もの観客を収容する競技場は必要なくなります。ただ人々は、巨大な建物をすべて取り壊して更地にしたわけではありません。使えるものは、そのまま使いました。
石造りの壁があれば家の壁にする。丈夫なアーチがあれば、その間を塞いで部屋にする。上に床を造れば、さらにその上にも家を建てることができます。こうして巨大なローマ建築は、少しずつ人々の生活空間へ取り込まれていったのです。
その名残は、現在のタラゴナ市庁舎前、プラサ・デ・ラ・フォントでも見ることができます。観客席を支えていたアーチは約4~5メートルの間隔で並んでいました。広場の脇に並ぶレストランやカフェを見ると、一軒一軒が細長く、ほぼその幅で建物が並んでいることが分かります。そして、その下には今もローマ時代のアーチが残っています。
つまり、2000年前の観客席を支えた構造が、その後に建てられた家の幅を決め、現在の町並みにまで残っているのです。

そしてもう一つ面白いのが、目の前に広がるプラサ・デ・ラ・フォントそのものです。今ではテラス席が並び、人々が食事をしているこの細長い広場こそ、ローマ時代には馬と戦車が駆け抜けていたサーカスの競走路だったのです。
これらのことから分かるのは、ローマ時代以降のタラゴナに暮らした人々は、現代の私たちのように、ローマ時代の遺構があれば「保存しなければ」と考えていたわけではない、ということです。
言い方は少し悪いですが、彼らはローマ遺跡を食べて生き、そして食べ尽くしていった人たちとも言えます。
壁があれば家の壁として使い、石があれば別の建物に使い、丈夫なアーチがあればその上に家を建てる。彼らにとってローマ時代の建物は、保存して眺める「遺跡」というより、そこにある使えるものだったのでしょう。
ただし、これはタラゴナに限った話ではありません。
例えば京都の街を掘れば、さまざまな時代の家や寺、道路などの跡が出てきます。古いものの上に新しいものを造り、さらにその上に次の時代の人々が暮らしてきました。
つまり昔の人たちが遺跡を大切にしなかったというより、過去を「歴史」として切り離し、保存して後世に残そうという考え方そのものが、もともとなかった。
そう捉えるほうが自然なのだと思います。
プレトリ(中世の王の城)

現在「プレトリ」と呼ばれている巨大な石造建築は、もともとローマ時代、属州の行政地区とサーキットを結ぶための建築の一部で、最初から王の城として造られたわけではありません。
中世になると、この建物は改造され、「王の城(Castell del Rei)」として使われるようになります。かつてローマ帝国の行政施設だった建物に、今度は中世の王が入ったわけです。
現代人から見ると、「ローマ遺跡を城にしてしまった」と感じるかもしれません。しかし当時の人々からすれば、逆でこれほど丈夫で便利な建物がすでにあるのに、なぜ新しく造り直すのか。
石を切り出し、運び、巨大な城を一から建てるには莫大な費用と労力が必要ですが、目の前に何百年も立ち続けている巨大建築があれば、それを利用する方が圧倒的に合理的です。
そしてその中世の時代が終わり近代になると、この建物の役割はそこで終ったのかと言うと、そうではありません。近代、時代が変わると兵舎になり、その後はなんと刑務所として1953年まで使われ続けたのでした。
つまり、一つの建物が、
ローマの行政施設(元々は)
→ 中世の王の城
→ 兵舎
→ 刑務所
→ 博物館・遺跡(現在)
と、何度も役割を変えてきたのです。建物は同じでも、そこへ入る人間と社会が変わるたびに、その意味も変わったのでした。
プレトリ内の展示

プレトリ内の展示を、ここでいくつか見てみましょう。まず、こちらは銅像の「台座」です。
ローマ時代のタラゴナには、神殿はもちろん、フォルムや競技場、円形闘技場など、街のいたるところに林立する程にたくさんの像が立っていました。ここに展示されているのは、その像を載せていた台座の部分です。

ローマ時代の像というと、私たちは白い石像を思い浮かべますが、実際には青銅で作られた像も非常に多くありました。ところが青銅は、後の時代になると貴重な金属資源として再利用されます。像は溶かされ、武器や道具、さまざまな金属製品へと姿を変えてしまいました。
そのため、像そのものはほとんど残っていません。像は消えてしまったのに、重くて再利用しにくい石の台座だけが残った。
だから今、私たちはこうして「像のない台座」を見ているわけです。さらにこのあと街を歩くと、こうしたローマ時代の石が、後世の建物の壁などに再利用されているのを見ることができます。
ローマの彫像の多くは首がない、一体なぜか?

あと、台座の展示の奥に進むとこのような石像があります
ところで、今まで博物館でローマ時代の石像を見た方は、「どうして首のない像ばかりなの?」と思うことがありませんか。
もちろん、長い年月のあいだに壊れたり、後の時代に破壊されたりして頭部を失ったものもあります。ただ、それだけではありません。ローマ時代には、最初から頭部を別に作り、取り外したり交換したりできるようにした像もありました。
全身像を一から作り直すのは、大変な手間と費用がかかります。そこで、正装姿や鎧姿などの胴体はそのまま使い、人物が変われば頭部だけを新しくする。今風に言えば「使い回し」です。
特に皇帝や有力者が交代した場合には、新しい人物の顔に取り替えることで、像そのものを再利用することができました。

例えば日本だと、安倍首相の像の後に、首だけ取り替えられ ⇒ 菅首相 ⇒ 岸田首相 ⇒ 石破首相と言う感じです。高市首相は女性なので、取り替えが効かず新調されたと言う感じでしょうか。
と言うことで、ローマの像に首がないものが多いのは、単に「壊れたから」とは限らないのです。
銅像は金属として溶かされ、石像は胴体だけが再利用される。ローマ時代の像を見ていると、当時の人たちが意外なほど実用的だったことも見えてきます。
【古代ローマの頭部交換式石像を再現】

古代ローマの石像の頭部交換を、画像で再現してみました。モデルは高市早苗首相と、バルセロナウォーカーのカミムラです。
いかがでしょうか。頭を替えるだけで、石像が別人として生まれ変わるという便利さ。これなら、人生の節目の記念日から冠婚葬祭まで、さまざまな思い出の場面で使えそうなローマ式アイデア石像です。
ロムルスとレムス

プレトリの見学を終え、外から出口へ向かう階段を下りていくと右手の下に一頭の雌オオカミの像が見えてきます。
よく見ると、そのお腹の下には二人の子ども。どこかで一度は、雌オオカミの乳を飲む双子の像を見たことがないでしょうか。
あの二人が、ローマ建国神話に登場するロムルスとレムスです。
幼いころ川に流され雌オオカミに育てられたとされる双子の兄弟。やがて二人は自分たちの都市を築こうとしますが争いとなり、ロムルスがレムスを殺害します。そして紀元前753年、ロムルスがローマを建国し、最初の王になったと伝えられています。
ちなみに「ローマ(Roma)」という名前も、このロムルス(Romulus)に由来するという伝承があります。つまり、ここに置かれているオオカミと双子の像は、単なる古代ローマ風の飾りではありません。
ローマという都市そのものの「始まり」を表すシンボルなのです。
神殿の上に建つカテドラル

旧市街の坂を一番上まで登ると、タラゴナのカテドラルがあります。なぜ、こんな高い場所に建てられたのでしょう。
実はこの場所、ローマ時代にも街の中で最も重要な場所の一つでした。現在カテドラルが建つ一帯には、皇帝崇拝のための巨大な神殿を中心とした聖域が広がっていたのです。
ローマ帝国が終わり、時代も宗教も変わりました。しかし、街の中で最も高く、象徴的だったこの場所の重要性まで消えたわけではありません。
やがて、その場所にはキリスト教のカテドラルが建てられます。
つまり、ローマの神殿がそのままカテドラルになったわけではありません。神殿は失われましたが、「街で最も重要な場所」という役割は、形を変えながら受け継がれていったのです。
【ローマ時代の神殿と現在のカテドラルの位置関係】
巨大な神殿、でも誰かが住んでいたわけではない

カテドラルを、あえて深掘りしない理由
ところで、
タラゴナのカテドラルについては、ここではあえて深掘りしません。もちろん、歴史ある立派な教会であり、それ自体に見どころがないわけではありません。ただ、タラゴナ観光の主役は、あくまで古代ローマの遺跡です。
円形闘技場や競技場、フォルムを巡りながら、少しずつ頭の中に古代ローマの街が形づくられてきたところで、突然、中世のキリスト教や教会建築の話を始めると、それまでの流れが途切れてしまいます。
いわば、アイドル歌手のコンサートのあとに、そのまま演歌歌手のディナーショーへ向かうようなもの。どちらも魅力的ではありますが、同じ日に続けて味わうには、少々ジャンルが違いすぎます。
そこでカテドラルは、かつてローマ時代の神殿があった場所に建つという、古代ローマとのつながりに触れるところまでにします。
城壁

タラゴナのローマ遺跡の中でも、最も古いものの一つが城壁です。その起源は紀元前3世紀末、ローマがイベリア半島へ本格的に進出し始めた時代までさかのぼります。
この時点では、タラコはまだ後世のような華やかな属州都市ではなく、ここはまず征服を進めるための軍事拠点でした。
そのため、ローマ人がこの場所にやって来て、最初から巨大なフォルムやサーカスを造ったわけではなく、まず必要だったのは自分たちを守るために城壁が築かれました。
つまり、現在観光客が歩いて見ている巨大な石の壁は、後に大都市となるタラコの、かなり初期の姿を伝えているのです。
なぜ、こんな巨大な石を使えたのか

城壁を間近で見ると、驚くのは石の大きさです。下部には、人間一人では到底動かせそうにない巨大な石が並んでいます。これを見ると、「ローマ人には、現代では失われた特別な石積み技術があったのではないか」と思いたくなります。
しかし、本当に驚くべきなのは石を積む技術だけではないのかもしれません。これだけの石を切り出し、運び、決められた場所へ並べるだけの人間を動かせたこと、そこにこそローマの本当の強さが見えてきます。
巨大建築は、一人の優れた石工だけでは造れません。石切場で働く人、石を運ぶ人、道具を作る人、食料を用意する人、作業を指揮する人、そして、それらを長期間維持するための資金と行政組織それらが全て揃って初めて出来上がったものです。
一方、ローマ帝国崩壊後の社会では、同じ規模の行政、財政、物流を維持することは難しくなります。
それ故、巨大な石を使う必要がなければ、より扱いやすい小さな石で造ればいいとなったと言うことです。それは技術の後退というより、社会の規模に合った建築へ変わったと見ることもできます。
巨大な石そのものより、本当に巨大だったのは、それを動かすことのできた組織だったのかもしれません。
タラゴナの城壁は、ローマの建築技術を残した遺跡であると同時に、ローマという国家が、どれほど大きな人間と物資を動かす力を持っていたのかを残した遺跡でもあります。
なぜタラゴナには城壁が残ったのか?

ところで、現在のタラゴナ旧市街を歩くと、今でもかなり長い区間にわたって城壁を見ることができます。しかし、これはヨーロッパの古い都市なら当たり前に残っているものではありません。
例えば、私たちにも馴染みのあるバルセロナ。実はバルセロナも、かつては街全体が城壁に囲まれた都市でしたが、19世紀になると状況が変わります。
大砲など兵器の発達によって城壁の軍事的な意味が薄れる一方、人口が急増したバルセロナでは、狭い城壁の中に人々が密集するようになります。街を外へ広げるためには、城壁が邪魔になってしまったのです。
そして1854年から城壁の本格的な撤去が始まり、その外側に現在の新市街が造られていきました。そのため、現在のバルセロナで見られる城壁は、ごく一部です。
上の写真は、現在もカテドラルの正面入り口の横に残るバルセロナのローマ城壁。よく見ると、かつて城内へ水を運んでいた水道を支えるアーチの跡も残っています。
一方、タラゴナもほぼ同じ時代、1855年には軍事要塞としての役割を失います。しかしバルセロナほど都市拡張の圧力が強くなかったことに加え、タラゴナの城壁には紀元前3~2世紀にまで遡る非常に古いローマ城壁が大規模に残っていました。
その歴史的価値が次第に認識され、19世紀後半には「不要になった城壁を壊す」という方向から、「古代ローマの遺跡として残す」方向へ変わっていきます。同じ19世紀、一方では近代都市を造るために城壁を壊したバルセロナ。
もう一方では、古代都市の記憶として城壁を残していったタラゴナ。現在の二つの街の姿の違いは、この時代の選択の違いでもあるのです
ラス・ファレーラス水道橋

タラゴナ郊外に残る、約2000年前の水道橋
ラス・ファレラス水道橋(Aqüeducte de les Ferreres)は、タラゴナ市街から北へ約4km、森の中に残るローマ時代の水道橋です。
建設されたのは紀元1世紀。当時のタラコへ水を供給していた水道の一部で、フランコリ川方面から引いてきた水を市内へ運ぶ途中、谷を越えるために造られた部分が現在の水道橋です。つまり、現在見えている巨大な橋そのものが水道の全区間だったわけではありません。タラゴナ観光局の資料では、この給水路全体は約15kmに及んだとされています。現在残る橋の規模は、
- 全長:約217m
- 最大高さ:約27m
- 上下2段のアーチ構造
- 上段:25のアーチ
- 下段:11のアーチ
- アーチの幅は約6.3m
- 左右の傾斜40㎝
アーチ27mというと現在の建物ならおおよそ8~9階建てに相当する高さです。それが217mにわたって谷を横切っています。
そもそも、どこからどこへ水を運んでいたのか

フランコリ川の水を取り入れていた場所は、現在のPuigdelfí(プッチデルフィ)付近と考えられていますが、そこから水路は、いきなり一直線にタラコへ向かったわけではありません。
できるだけ自然の地形に沿いながら、少しずつ地形の等高線に沿って高度を下げて市街地へ向かいました。、
イメージとしては、Puigdelfí付近 → フランコリ川沿い → タラゴナ郊外 → ラス・ファレラス水道橋 → 古代都市タラコという流れです。
*水道橋の画像は3層になっていますが、実際は2層アーチです。
15kmすべてが、あんな橋だったわけではない

ローマ水道と聞くと、ラス・ファレラスのようなアーチ橋が何kmも続いていたように想像してしまいますが実際にはまったく違いローマ人は基本的に、一番簡単で安定した方法で水路を通しました。
地面を掘って水路を通せる場所では地下や半地下にし、斜面では地形に沿わせ、必要なら石造りの水路を造る。そして、どうしても谷を越えなければならない場所だけ、巨大な橋を架けました。
つまり、地下水路 → 地表の水路 → また地下 → 谷では水道橋 → 再び地表または地下という具合です。
ラス・ファレラスは、その15kmほどの水道の途中で出会った大きな谷を越えるための約217mだけが、たまたま現在のような巨大建築になったわけで、私たちが「ローマ水道」と聞いて思い浮かべる巨大なアーチ橋は、実は水道全体から見れば例外的な部分だったのです。

理由は、水を重力だけで流していたからです。
水源が高く、目的地が低ければ水は自然に流れます。しかし途中で一度でも水路を必要以上に低いところへ落としてしまえば、その先でもう一度高い場所へ上げることはできません。
そこでローマ人は、水路全体に非常に緩やかな下り勾配をつけながら、山や谷を迂回していきました。それは、一見すると遠回りですが、最短距離よりも、「水が最後まで流れ続ける高さ」を維持することの方が重要だった、ということです。
この考え方が分かると、ラス・ファレラスの巨大さも理解しやすくなります。谷まで来たとき、水路そのものを谷底まで下げてしまえば、その先へ水を運べません。だから、水路の高さはそのままにして、その下を石のアーチで支えた。その結果、高さ約27mの水道橋が必要になりました。
上の図は、私が実際のガイドで説明する際に使っている自作資料です。ローマ時代と現代の水道を比べると、なぜ水道が遠回りしなければならなかったのかが分かりやすいと思いますが要するに
ローマ=基本は重力 → 水路を緩やかに下げながら流す
現代=密閉した水道管 → 圧力を利用して谷を越えられる
最後はどこへ行ったのか

こうして運ばれてきた水は、タラコ市内の公衆浴場、公共の噴水、公共施設、一部の個人住宅など市内各所へ分配されました。
川 → 長距離水道 → 市内の水道網
という、かなり現代の上水道に近いシステムを約2000年前に構築していたことになります。
ところが、この便利な都市生活がそのまま後世へ受け継がれたわけではありません。西ローマ帝国末期から、戦乱や人口減少によって都市は次第に縮小し、帝国が築いた巨大な水道網を維持・補修する行政や財政の仕組みも弱まっていきました。
水道は造って終わりではなく、長い水路を絶えず清掃し、壊れれば修理し続けなければなりません。それが難しくなると、多くの水道は次第に使われなくなり、中世の都市では井戸や泉、川などが再び重要な水源となっていきます。
歴史はいつも進歩を続けるように思えますが、少なくとも都市インフラという点では、ローマ帝国の崩壊後、一時的に後退した時代があったのです。
なぜアーチを二段も積んだのか

ラス・ファレラス水道橋を見ると、まず気になるのが、なぜこれほど高く、しかもアーチを二段も積み上げたのかということです。
まずアーチにした理由は、これだけの高さを石の壁で埋めてしまえば、大量の石材が必要になります。そこで使われたのがアーチです。
アーチなら空間を大きく開けたまま、その上の重さを左右の柱へ逃がすことができます。少ない石材で高く、しかも丈夫な構造物を造ることができるわけです。
更に、一つのアーチを巨大にすると、それを支える柱や基礎も大きくなります。また、アーチは完成するまで石を下から支えておく必要があるため、建設時の木枠も巨大になります。
そこで、無理に一つの巨大なアーチを造るのではなく、同じような大きさのアーチを繰り返し、それを上下に積み重ねることで必要な高さを確保しました。
【石を積み上げた巨大な構造物】
水道橋には、この地方で採れる黄褐色の石灰岩が使われています。
同じような形の柱とアーチを繰り返す構造は、施工の面でも合理的でした。ひとつの基本となる形を決め、画像でも分かるように、アーチが完成すると木製の型枠を取り外し、それを次のアーチで再び使う。いわゆる「使いまわし」をしながら、同じ構造を次々と造っていくことができたわけです。
そして、これほど大きな建造物ですが、本当に必要だったのは一番上にある細い水路です。
二段のアーチも巨大な石柱も、すべてはその水路をわずかな勾配のまま谷の反対側へ渡すための「土台」でした。
そして重要なのは、巨大に見せるために巨大にしたわけではないということです。水を流す高さを維持したい。しかし谷の部分だけ地面が低くなる。
ならば、その分を下から構造物で支えればいい。その結果として、あの巨大な姿になったのです。
【人間モーター】

ローマ時代には、すでに現代のクレーンによく似た仕組みの木製クレーンが使われていました。滑車とロープを組み合わせ、重い石材を吊り上げ、高い場所まで運びます。もちろん電気もエンジンもない、今から約2000年前の話です。
では、このクレーンをもう少しよく見てみると、現代のクレーンとは違い、なぜか大きな車輪があり、その中には何人もの人がいますが彼らはいったい、ここで何をしていたのでしょうか。
皆さんも一度は見たことがある、ハムスターの回し車をイメージしてください。
人がこの車輪の中に入り、歩いて回し、その回転でロープを巻き上げ重い石を吊り上げていました。つまり、この巨大なクレーンを動かす「モーター」の役目をしていたのは、人間だったのです。
ところで、そんなに水が必要だったのか?

ここまで見てくると、ひとつ疑問が出てきます。わざわざ山から何十kmも水路を引き、谷には巨大な水道橋まで造る程に大量の水が必要だったのか?
答えは、必要だったのです。
というのも、ローマ都市にとって水道は、単に「飲み水を運ぶための設備」ではなかったからです。
これだけ大量の水を必要とした背景には、当時のタラコに、すでにかなり高度な都市生活が成立していたことがあります。
人々が暮らす住宅があり、街角には噴水があり、公衆浴場では多くの市民が湯を使う。公共トイレでは水を流し、街の排水は下水へと送られる。裕福な邸宅では水を引き、庭園や噴水にも使っていました。
そして、こうした水を毎日安定して供給するために、遠くの水源から何十kmにもわたって水路を造り、途中に谷があれば巨大な水道橋を架けたのです。
今から約2000年前、タラコには数万人が暮らし、その生活を支えるための水道、道路、下水、公共浴場、娯楽施設などを備えた都市社会がすでに存在していました。
ラス・ファレラス水道橋は、単に水を運んだ建造物ではありません。その巨大さそのものが、当時のタラコがどれほど大きく、高度な都市生活を営んでいたのかを物語っています。
水は誰のものだったのか
ここまで読むと、ローマの街では各家庭に水道が引かれ、誰もが蛇口をひねって水を使っていたように思えるかもしれません。しかし、そこは現代とは違います。
水道によって街まで運ばれてきた水は、まず公共の噴水や浴場などへ供給されました。一般の人々にとって、街角に設けられた公共の噴水は、生活に必要な水を得る大切な場所でした。
一方、すべての家に水道管が引かれていたわけではありません。裕福な邸宅などでは、許可を得て公共の水道から管を分岐させ、自宅へ直接水を引くこともできました。家の中や中庭に噴水を設けることさえありました。
つまり、同じ街に暮らしていても、公共の噴水まで水を汲みに行く人がいる一方で、自宅まで水が届く人もいた。そして水は、好きな場所から勝手に引いてよいものでもありませんでした。
誰に、どこから、どれだけ水を供給するのか。水道や給水は行政によって管理され、不正な分岐や水の盗用も問題になっていました。
こうして見ると、ローマの水道は単なる「水を流すための設備」ではありません。水源を確保し、何十kmも運び、街の中で分配し、公共施設や市民へ供給し、それを行政が管理する。
まさに古代版の「都市インフラ」だったのです。
水は「流しながら使う」ものだった
ここで、ローマ時代の水道について、現代とは少し違う感覚を知っておく必要があります。私たちは蛇口を開けば水が出て、閉めれば止まるのが当たり前だと思っています。
ところがローマの水道は、遠くの水源から高低差を利用して水を流し続ける、基本的には重力式のシステムでした。街へ届いた水は貯水・分配施設から各所へ送られ、公共の噴水や浴場などで利用されます。そして、そこで終わりではありません。
余った水や使われた水は排水へ流れ、場所によっては道路や下水、公共トイレなどを洗い流すことにも利用されました。
では、なぜ水を止めずに流したのでしょうか。
ひとつには、現代のように各家庭の蛇口で必要な時だけ水を使い、街全体の水量を細かく制御する仕組みではなかったことがあります。さらに、水を流し続けること自体にも意味がありました。
公共の水場には絶えず新しい水が供給され、そこからあふれた水は街の汚れや排水を下流へ運んでいきます。
つまりローマの水道では、「必要な時だけ水を出す」というより、「街の中へ絶えず水を流し、その流れを利用する」という考え方が基本にありました。水道と下水は別々の設備でありながら、水の流れという点ではつながっていたのです。
もうひとつ、水質の問題もあります。
当時はもちろん、現代のような塩素による消毒などありません。水を長期間溜めておくより、水源から新しい水を絶えず送り続ける方が、水を良い状態に保ちやすいという利点がありました。
ローマ人が細菌の存在を知っていたわけではありません。それでも経験的に、「流れる水」と「淀んだ水」の違いは知っていたのです。
誰が造り、誰が維持したのか
これだけ巨大な水道を見ていると、「ローマ人が造った」という一言で済ませてしまいがちですが、当然ながら、勝手に出来上がったわけではありません。まず必要なのがお金です。
水源を確保し、何十kmにも及ぶルートを測量し、水路を掘り、トンネルを抜き、谷には水道橋を架ける。こうした大規模な公共事業には、都市の財政や皇帝など権力者の関与があり、場合によっては有力者からの寄付も建設を支えました。
そして実際の工事には、どこを通せば水が自然に流れるのかを計算する測量・技術者がいて、その計画に従って石工や大工、さまざまな労働者が働きました。
しかし、本当に大変だったのは完成した後だったのかもしれません。水道は、造れば何百年も勝手に水が流れ続けるものではありません。水路には土砂が入り、水に含まれる石灰分が少しずつ内側に付着します。亀裂が入れば水が漏れ、崩れた場所があれば修理しなければなりません。
そのためローマでは、水道を管理する人員を置き、水路を点検し、清掃し、壊れた部分を補修しながら使い続けました。
私たちが現在見ている巨大な水道橋は、建設技術の高さばかりに目が向きます。しかし考えてみれば、造るより、それを何百年も使い続けることの方が大変だったのではないでしょうか。
水道橋が伝えているのは、石を積み上げる技術だけではありません。
それだけの公共インフラを長期間維持できる、行政、財政、技術者、そして現場で働く人々を含めた「仕組み」まで、ローマ社会は持っていたということです。
【現代の水道施設の点検風景】

約2000年たった現在でも、水道は造って終わりではありません。人が内部に入り、点検し、清掃し、必要なら補修する。
使う技術は変わっても、「水を流し続けるためには維持する人が必要」という点は、ローマ時代と変わりません。
記事は取材時点のものです。現在とは記事の内容が異なる場合もありますのでご了承ください。間違った情報、また有用新情報、分かり難い点や質問等ございましたら情報共有いたしますので、サイト内の「バルセロナ観光情報掲示板」に書き込んでください。
@
![]() |
@ | この記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。 |
| アこの記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパを旅し1997年よりバルセロナに在住。。 記事最終更新 2026.08.28 | ||
ピックアップ記事。
観光記事一覧
基本情報記事一覧
レストラン記事一覧
ショッピング記事一覧
エンターテイメント記事一覧
</table
![]() |
【サッカー情報】 バルサ。世界屈指の人気チームを中心に解説します。 |
![]() |
【フラメンコ情報】 本場アンダルシアに負けず劣らずのレベルの高いフラメンコがここでも見れます。 |

































































