現在、タラゴナの円形闘技場に立つと、まず目に入るのは地中海です。海を背景に残る石造りの観客席は美しく、タラゴナを代表する景色の一つになっています。
しかし約2000年前、ここへ人々が集まった目的は景色を見るためではありませんでした。この場所で行われていたのは、剣闘士の試合、猛獣を使った見世物、そして公開処刑です。人が傷つき、ときには死ぬ。それを大勢の観客が見ていました。
【ローマ時代当時の建物と試合の再現映像】
2万5000人を覆った巨大な日除け

円形闘技場には屋根がありません。しかし、真夏の地中海で何時間も見世物を見るとなれば、観客にとって日差しは大問題です。そこで使われたのが「ウェラリウム」と呼ばれる巨大な布製の日除けでした。

外壁の上には多数の柱が立てられ、そこからロープを張り巡らせ、その上に巨大な布を展開します。現在のスタジアムの開閉式屋根とはまったく違い、仕組みとしては巨大な船の帆を空中に張ると考えた方が分かりやすいでしょう。
布は競技場全体を完全に覆うのではなく、中央部分を開けたまま、主に観客席へ影を落とします。風を受ける巨大な布を何本ものロープで操るため、その操作には船の帆を扱うのと同じような技術が必要でした。
【用途を忘れられた石が、教会の壁になった】

円形闘技場の近くに建つミラクル教会の壁を見ると、中央に丸い穴の開いた石が埋め込まれています。
この石はもともと、円形闘技場の観客席を覆っていた巨大な日除け「ウェラリウム」を支える柱を通すために使われていたものです。闘技場が使われていた時代には、穴にもきちんとした役割がありました。
ところが円形闘技場が使われなくなり、後世になると、その仕組みも役割も忘れられていきます。残された巨大な建物は石材を取る場所となり、切り出された石は新しい建物の材料として再利用されました。
この穴の開いた石もその一つです。教会を造った人々にとっては、なぜこんな場所に穴が開いているのか全く分からなかったはずですが、それでも石材として使えるため、そのまま壁の中へ組み込まれました。
2000年前には巨大な日除けを支える設備の一部だった石が、その役割を失った後は教会の壁になる。現在では、その穴が逆に「この石がどこから来たのか」を教えてくれています。
なぜ剣闘士は全身を鎧で覆わなかったのか

剣闘士の防具を見ると、立派な兜やすね当て、腕を守る防具を身につけている一方で、腹や太腿など意外なほど広い部分がむき出しになっています。これは単に防具が未発達だったからではありません。盾で守る場所、防具で守る場所、そしてあえて重い鎧をつけない場所を組み合わせ、動きやすさとのバランスを取っていました。
さらに剣闘士の戦いは、戦場で敵をできるだけ早く殺すための戦闘とは違い、大勢の観客に見せる競技でもありました。防具で完全に身を固めてしまえば攻撃が決まりにくくなり、反対に防具が少なすぎれば戦いがすぐ終わってしまう。剣闘士ごとに異なる武器と防具の組み合わせには「戦わせながら、見世物として成立させる」という面もあったのです。
【観客から見えない「舞台裏」が地下にあった】

現在のタラゴナの円形闘技場を見ると、中央を十字に横切るような深い溝が残っています。一見すると排水のための溝のようにも見えますが、これは闘技場の地下施設の跡です。
ローマ時代にはこの上に木製の床が張られ、さらにその上を砂で覆った競技場が広がっていました。つまり、現在見えている地下部分は、本来なら観客からは見えない場所だったのです。
ここで少し面白いのが、現在でも競技場を意味する**「アリーナ(arena)」という言葉**です。もともとはラテン語で「砂」を意味する言葉で、スペイン語でも今なお arena は「砂」という意味で使われています。
剣闘士たちが戦う床には砂が敷かれていたため、やがて砂を敷いた競技場そのものを arena と呼ぶようになり、それが現在の「アリーナ」という言葉につながりました。
その床の下には、剣闘士や猛獣、見世物に必要な道具などを待機させる空間があり、必要に応じて地上のアリーナへ送り出す仕組みが造られていました。現在の劇場やコンサート会場でいえば、観客から見えない舞台裏のような場所です。

まるで演歌歌手が舞台のせりから上がってくるように、猛獣が突然、地下からアリーナへ姿を現します。何もなかった床からライオンなどの猛獣が現れれば、観客席からは大歓声が上がったことでしょう。
もちろん、当時は電動のエレベーターなどありません。地下では人力で巻き上げ機を動かし、猛獣を入れた檻をゴンドラのように持ち上げていました。華やかな見世物の足元では、大勢の人間が舞台装置を動かしていたのです。
ところで、そんな光景に大歓声を上げていたローマ人は、現代人より野蛮で残酷な人々だったのでしょうか。そう考えてしまえば簡単ですが、それだけでは、これほど巨大な円形闘技場がローマ帝国各地に造られ、多くの人々を集め続けた理由までは見えてきません。
少し見方を変えて、当時の人々にとって円形闘技場がどんな場所だったのかを見てみましょう。
円形闘技場は巨大な娯楽施設だった

剣闘士の試合は、現在の感覚では決闘場や処刑場のように想像されがちですが、実際には大勢の観客を集める娯楽でもありました。
では、少し想像しやすくするために、現代の「さいたまスーパーアリーナ」に置き換えてみましょう。
ここでは人気アイドルのコンサートが開かれれば何万人もの観客が集まり、別の日にはPRIDEのような格闘技が行われ、観客が選手の勝敗に熱狂します。同じ巨大な建物が、内容を変えながら大勢の人々を楽しませる場所として使われています。
ローマの円形闘技場も、基本的な役割はこれに近いものでした。剣闘士の試合の日もあれば、猛獣を使った見世物の日もある。特別な催しが開かれ、大勢の市民が集まり、人気の剣闘士は現代の格闘家やスポーツ選手のようなスターにもなりました。
ただし、現代のアリーナとの間には決定的な違いがあります。ローマでは、この娯楽施設が公開処刑の場所でもあったことです。
午前には猛獣を使った見世物、昼には犯罪者の処刑、そして午後には剣闘士の試合といった具合に、私たちならまったく別のものと考える「娯楽」と「刑罰」が、一日のプログラムの中に並ぶことさえありました。
もし現代のさいたまスーパーアリーナで、コンサートや格闘技と同じように公開処刑まで行われていたと考えれば、ローマの円形闘技場がどのような場所だったのか、少し実感しやすくなるかもしれません。
現代の私たちには理解しにくい感覚ですが、ここから見えてくるのは「2000年前の人間は、私たちとはまったく違う人間だったのか」という疑問です。時代や社会の仕組みは大きく違っても、人間そのものまで別物だったのでしょうか。ここから少し、その中へ入ってみます。
なぜ処刑を大勢に見せたのか

刑罰は、人目につかない場所で行うこともできます。それなのに、なぜわざわざ何千人もの人を集め、その前で処刑したのでしょうか。
そこには「罰する」こととは別に、「見せる」ことの意味がありました。
法律に逆らえばどうなるのか。社会の秩序から外れた者がどう扱われるのか。それを大勢の人々に実際に見せることで、国家の力と秩序を目に見える形で示したのです。
そして、これはローマだけの特殊な習慣ではありません。日本をはじめ世界各地で、公開処刑は近代になるまで珍しいものではなく、処刑だけでなく、罪人やその遺体を人目にさらすこと自体が刑罰の一部とされることもありました。
つまり、人々の前で刑罰を執行するという考え方は、ローマ人だけが持っていた残酷な発想ではなく、長いあいだ多くの社会で使われてきた普通の統治の方法でもあったのです。そう考えると、タラゴナの円形闘技場で行われた公開処刑も、「残酷だったローマ人」という一言だけでは説明できなくなってきます。
実際、日本や世界の歴史を見ても、公開処刑が行われたり、処刑後の遺体が街道沿いや広場、河原など人目につく場所にさらされた例は数多くあります。
【日本や世界にもあった、見せる刑罰】
- 日本
- 石川五右衛門 — 1594年、京都・三条河原で処刑
- 豊臣秀次の妻妾・子女ら 三条河原で多数が処刑
- 石田三成 — 関ヶ原の戦い後に斬首され、首が京都で晒され
- 近藤勇 — 1868年に板橋で斬首され、首は京都・三条河原に晒され
- 海外
- マリー・アントワネット — 1793年、パリでギロチンにて公開処刑。
- ルイ16世 — 同じく1793年、革命広場でギロチンにて公開処刑。
- ジャンヌ・ダルク — 1431年、ルーアンで火刑。
- トマス・モア — 1535年、ロンドンで斬首。
無料の見世物を誰が用意したのか
そして、もう一つ重要なのが金です。これほど巨大な施設で行われる見世物には、当然ながら大きな費用がかかります。剣闘士を用意し、猛獣を遠くから運び、大規模な催しを開催する。その費用を負担したのは、皇帝や地方の有力者などでした。
観客にとっては無料で楽しめる巨大イベントでしたが、それを提供する側にも意味がありました。大勢の市民に娯楽を提供することは、自らの富と力を示すと同時に、人気や名声を得ることにもつながります。また、富や地位を持つ者が社会のために金を使うことは、ローマ社会では有力者に期待される役割の一つでもありました。
そして、大衆に食料と娯楽を与えることで政治への関心や不満がそらされている――そんなローマ社会を風刺した言葉として、後世まで残ったのが「パンとサーカス」です。
ただし、これを単純に「支配者が民衆を愚かにするために娯楽を与えた」と考えてしまう、それだけでは少し話を単純化しすぎでしょう。市民は娯楽を得る、有力者は名声や支持を得る。そこには一方的に「与える側」と「操られる側」だけでは説明できない関係もありました。
現代でいえば、国の生活支援のための給付金や補助金にも似た面があります。受け取る側の国民には実際の利益があり、実施する側の政府、政治家には政治的な評価が返ってくる。単純に騙す側と騙される側がいるのではなく、双方がそれぞれ利益を得る、持ちつ持たれつだからこそ、この関係は成り立つのです。
では、現代人は違うのか

ここまで来ると、少し嫌な疑問が残ります。私たちはローマ人のように、人が殺されるところを競技場へ見に行くことはありません。
しかし、ボクシングなどの格闘技はもちろん、激しい身体のぶつかり合いがあるアメリカンフットボール、サッカーの激しい攻防など、多くのスポーツには、対立、衝突、危険、勝敗という、人間を強く引きつける要素が含まれています。
映画も同じです。アクション映画、戦争映画、犯罪映画、サスペンスなど、暴力や危険を取り除いてしまえば成り立たない作品は数え切れません。事故、戦争、犯罪の映像にも、見てはいけないと思いながら目を向けてしまうことがあります。
もちろん、現代のスポーツや映画と、実際に人が殺されるローマの剣闘士試合が同じものでないことは、子どもでも分かります。社会も法律も、人権についての考え方もまったく違います。それでも私たちは、なんとなく気づいてもいます。
人間は今でも、危険や対立、そして暴力に強く引きつけられる部分を持っているのではないのか?。
だとすれば、「人間はなぜ暴力を見ることに引きつけられるのか」という問いは、2000年前のローマ人だけの話ではありません。タラゴナの円形闘技場は、ローマ人の残酷さを眺めるだけの遺跡ではありません。
石造りの観客席に座っていた人々を「残酷な昔の人」と切り離すのではなく、もし自分が2000年前のタラコに生まれていたら、この場所へ見に来なかったと言い切れるだろうか?みんなと一緒に歓声を上げて盛り上がっていなかったろうか?。
そう考えてみると、この遺跡は少し違って見えてきます。飛行機にも乗るし、手にはスマホと言う最新のテクノロジーをもちながら、中身は2000年前とそう変わらないのでは??
闘技場から聖地へ

*よく見ると十字架の形をしている
タラゴナの円形闘技場を上から眺めると、楕円形の競技場の中央に、明らかにローマ時代とは形の違う建物の跡が見えます。教会です。なぜ、人を戦わせ、猛獣を放ち、公開処刑まで行われていた円形闘技場のど真ん中に、後世の人々は教会を建てたのでしょうか。
その理由は、西暦259年に起きた一つの処刑にあります。
当時のタラコには、すでにキリスト教徒の共同体がありました。その指導者だった司教フルクトゥオソと、助祭のアウグリオ、エウロギオの3人が捕らえられ、この円形闘技場で火刑に処されました。ローマ皇帝ウァレリアヌスによるキリスト教徒迫害の時代のことです。
その日、円形闘技場はローマ側から見れば、いつものように国家の力を示す場所でした。罪人を大衆の前に出し、処刑する。前章で見た「見せる刑罰」です。
ところが、その処刑された側の人々にとっては、まったく違う意味を持つ出来事になりました。3人は犯罪者として忘れ去られるのではなく、殉教者として記憶されるようになったのです。
それから約300年。キリスト教が公認され、やがてローマ世界の中心的な宗教となった後、6世紀ごろ、この円形闘技場のアリーナにキリスト教のバシリカが建てられます。
しかも場所は偶然ではありません。フルクトゥオソたちが殉教したと考えられた場所に建てられました。これは非常に象徴的です。かつて、ローマ国家がキリスト教徒を処刑した場所だったところが、今度は、そのキリスト教徒を聖人として祈る場所になったのです。
建物が一つ増えただけではありません。場所の意味そのものが、ひっくり返っています。話はここで終わりません。
12世紀になると、初期キリスト教のバシリカの上に、今度はロマネスク様式のサンタ・マリア・デル・ミラクレ教会が建てられます。つまり、この場所には、
ローマの円形闘技場
↓
殉教者を記念するキリスト教バシリカ
↓
中世の教会
↓
現在、廃墟となった教会
と、時代の違う建物が同じ場所に重なっています。タラゴナの円形闘技場が少し奇妙に見えるのは、そのためです。
普通ならローマ遺跡だけをきれいに見せたくなるところですが、ここでは後世の建物までアリーナの中央に残っています。しかし、この「邪魔に見えるもの」こそ、この遺跡の面白い部分です。
さらに面白いのは、ローマの円形闘技場を覆うように建てられた教会も、永遠には続かなかったことです。サンタ・マリア・デル・ミラクレ教会もやがて役割を失い、現在ではその壁の一部が遺構として残るだけになりました。
ローマ競技場
*画像をクリックっすると拡大できます
タラゴナのローマ遺跡の中でも、少し想像しにくいのがサーキット(サーカス)です。現在は建物の下や地下通路の一部が残っているだけですが、ローマ時代には、ここで大勢の観客が戦車競走に熱狂していました。
戦車競走は、単に馬車が速さを競うだけの競技ではありません。速い馬、腕のよい騎手、危険な追い越し、接触、転倒。そして何より、自分が応援するチームが勝つか負けるか。この仕組みは、現代のスポーツと驚くほどよく似ています。
【なぜサーキットの中央に、こんなものが並んでいたのか?】
*画像をクリックっすると拡大できます
現在の競馬場や自動車サーキットを想像すると、コースの中央にオベリスクや神々の像、祭壇、噴水が並んでいる光景は少し不思議に見えます。
しかし、ローマ時代のサーカスは単に戦車の速さを競うだけの場所ではありませんでした。中央部分には周回数を知らせる実用的な設備がある一方、神々の像や祭壇など宗教に関係するものが置かれ、さらに巨大なオベリスクが建てられることもありました。
特にローマのチルコ・マッシモには、征服したエジプトから運んできた本物のオベリスクまで建てられています。競走にはまったく必要のない巨大な石柱ですが、何万人もの市民が集まる場所に置けば、ローマ帝国の力や豊かさを見せる格好の舞台にもなります。
つまりサーカスの中央は競走のための設備だけでなく、宗教、装飾、そして帝国の力を見せるものまでが一緒に並ぶ場所でもあったのです。
※ただし、中央に何が置かれていたかは都市や時代によって異なり、タラゴナのサーカスにこの図と同じものがすべて存在したという意味ではありません。
【ローマ時代当時のレース様子の再現映像】
当時の戦車レースの様子を再現した映像です。最後には、現在のタラゴナの街に残る遺跡と、失われた部分を復元した映像が重なり、かつてサーキットが街のどこまで広がっていたのかを見ることができます。
※動画では6チームのように描かれていますが、当時の主要なチーム(ファクティオ)は、赤・白・青・緑の4つでした。なお、4チームだからといって、レースに4台の戦車しか出なかったという意味ではありません。一つのチームから複数の戦車が出場することもありました。
【カミムラ豆知識】

ローマの戦車競走場は、ラテン語でCircus(キルクス)と呼ばれていました。語源は「円」「輪」を意味する言葉につながり、細長い競走路をぐるぐると周回することから、巨大な戦車競走場をCircusと呼ぶようになりました。ここから現在の英語のcircle(サークル・円)やcircuit(サーキット・周回・回路)などにもつながる言葉が生まれています。では、なぜ現在の「サーカス」も同じ言葉なのでしょうか?。
近代のサーカスは、円形の会場で馬術などの見世物を行う興行として発展しました。その円形の興行場が古代ローマのCircusになぞらえて「circus」と呼ばれ、やがて空中ブランコ、曲芸、道化師などを含む現在のサーカスを意味するようになりました。
つまり、古代ローマのCircus=戦車が周回する巨大競技場から、現代のcircus=円形会場でさまざまな見世物を行う興行へと、言葉の意味が変化していったのです。ちなみに自動車レースで使うcircuit(サーキット)も、「一周する、ぐるっと回る」という同じ系統の言葉です。
色で分かれたチーム

ローマの戦車競走には、赤、白、青、緑というチームがありました。騎手や馬は、それぞれのチームに所属して競走しました。メトロポリタン美術館に残るローマ時代のメダリオンにも、緑組の勝者が描かれています。
観客にも当然ひいきのチームがありました。青を応援する者、緑を応援する者。勝てば喜び、負ければ悔しい。また有名な騎手にはファンがつき、スター選手のような存在になりました。戦車競走を支えるために、馬の管理、鍛冶、医療、厩舎などを含む大きな産業まで形成されていました。
2000年前の話なのに、仕組みだけを見ると現代のプロスポーツとそれほど遠くありません。
馬車が走っているだけなのに、なぜ興奮するのか

冷静に考えると不思議です。自分が馬を走らせているわけでもありません。勝ったからといって、自分の生活が直接よくなるわけでもありません。それなのに、自分が応援しているチームがゴールへ近づくと立ち上がり、負ければ腹を立てる。これは現在のサッカーでも同じです。
バルセロナの人がFCバルセロナの選手ではなくても、「私たちが勝った」と言います。ローマの戦車競走でも、おそらく似たことが起きていて人間はチームを選ぶと、そのチームの勝敗を自分のことのように感じることがあります。
競技場には何万人もの同じ色を応援する人間が集まり、一斉に叫ぶ。そこで生まれる興奮は、競走そのものだけではありません。大勢の人間と同じものを応援しているという一体感も、大きな快感だったのでしょう。
危険だからこそ面白かった

戦車競走は非常に危険な競技でもありました。複数の戦車が高速で走り、狭いカーブへ一斉に突っ込む。接触すれば戦車が壊れ、御者が投げ出されることもあります。古代ローマの競走には、事故や死が常に隣り合わせにありました。
つまり観客は、速さ、技術、勝敗、そして危険を同時に見ていたことになります。これも完全に過去のものではありません。オートバイのレースでも、格闘技でも、スキーの滑降でも、競技から危険を完全に取り除いてしまえば、どこか魅力が失われる部分があり、毎年夏に行われるスペインの牛追い祭りこそ正にその典型とも言えます。
もちろん選手が傷つくことを望んでいるわけではありません。それでも、失敗すれば大きな代償がある状況で、人間がぎりぎりまで能力を使う姿に私たちは引きつけられます。ローマ人も同じだったのかもしれません。
【カミムラ豆知識②】

ちなみに、バルセロナは、ヨーロッパでも特にバイクの多い街として知られています。冬でも比較的温暖で、一年を通してバイクに乗りやすい気候であることが、その大きな理由の一つです。
ただ、それだけではないようにも感じます。スペインでは、スピードや競争、少し危なっかしいもの、スリルのあるものを楽しむ文化が異常なほど強く、バイクの多さ、異常なほどバイク好きにも、そんな気質がどこか関係しているのかもしれません。
賭ければ、さらに自分事になる

戦車競走では、観客による賭けも盛んに行われていました。
ただし、現在の競馬のように国が馬券を売り、オッズを管理する「公営ギャンブル」があったわけではありません。観客同士などで、自分のひいきの御者やチームに金を賭ける、もっと私的な賭けに近かったものです。
自分の応援する御者やチームに金を賭ければ、競走はさらに自分自身の問題になります。単なる見物だったものが「勝ってほしい」から、「勝ってもらわなければ困る」へ変わる。
皇帝にとっても重要な場所だった

サーカスは観客だけの場所ではありません。皇帝や地方の支配者にとっても、大勢の民衆が一か所に集まる重要な空間でした。
競走を開催し、娯楽を提供する。皇帝が姿を見せれば、群衆は皇帝を直接見ることもできます。つまり支配する側とされる側が、巨大な競技場の中で同じ出来事を共有していました。ここにも前章の円形闘技場と同じ構造があります。
市民は娯楽を得る。
支配者は人気や名声を得る。
国家は巨大な群衆を一つの場所に集める。
サーカスはスポーツ施設であると同時に、政治的な空間でもありました。
2000年前のスタジアム

タラゴナのサーカス跡を歩いても、現在は戦車も馬も観客もいません。石の通路だけを見ていると、巨大な古代建築にしか見えません。
しかし、ここに何万人もの人が集まり「青だ」「緑だ」と自分のひいきのチームを応援し、有名な騎手の名前を叫び勝敗に一喜一憂していたと考えると、急に距離が縮まります。
戦車競走には赤・白・青・緑のチームがあり、御者は所属するチームの色を身につけました。観客にも「自分は青組」「私は緑組」という強い帰属意識があり、現在のサッカーでひいきのクラブの色を身につけて応援するのとよく似ています。
なので、2000年前の人間だから熱狂したのではありません。人間は今でもチームを作り、色を身につけ、スターを応援し、大勢で勝敗を見ることが好きなんです。
サーカスから戦車と馬が消えただけで、人間を熱狂させる仕組みそのものは、現在の巨大スタジアムにもかなり残っているのかもしれません。
競技場は消えたのか?
タラゴナのサーカス(サーキット)を見学すると、少し不思議に感じます。ローマ時代には巨大な戦車競走場だったはずなのに、現在目の前にあるのは地下へ続く石造りの通路や、わずかに残ったアーチです。
競技場はいったい、どこへ消えてしまったのでしょうか。実は、完全に消えたわけではありません。その上に町ができてしまったのです。
巨大な競技場の上に、現在の町がある

ローマ時代のタラコのサーカスは、現在の旧市街の一部を占める巨大な施設でした。しかしローマ帝国が衰退すると、何万人もの観客を収容する競技場は必要なくなります。ただ人々は、巨大な建物をすべて取り壊して更地にしたわけではありません。使えるものは、そのまま使いました。
石造りの壁があれば家の壁にする。丈夫なアーチがあれば、その間を塞いで部屋にする。上に床を造れば、さらにその上にも家を建てることができます。こうして巨大なローマ建築は、少しずつ人々の生活空間へ取り込まれていったのです。
その名残は、現在のタラゴナ市庁舎前、プラサ・デ・ラ・フォントでも見ることができます。観客席を支えていたアーチは約4~5メートルの間隔で並んでいました。広場の脇に並ぶレストランやカフェを見ると、一軒一軒が細長く、ほぼその幅で建物が並んでいることが分かります。そして、その下には今もローマ時代のアーチが残っています。
つまり、2000年前の観客席を支えた構造が、その後に建てられた家の幅を決め、現在の町並みにまで残っているのです。

そしてもう一つ面白いのが、目の前に広がるプラサ・デ・ラ・フォントそのものです。今ではテラス席が並び、人々が食事をしているこの細長い広場こそ、ローマ時代には馬と戦車が駆け抜けていたサーカスの競走路だったのです。
これらのことから分かるのは、ローマ時代以降のタラゴナに暮らした人々は、現代の私たちのように、ローマ時代の遺構があれば「保存しなければ」と考えていたわけではない、ということです。
言い方は少し悪いですが、彼らはローマ遺跡を食べて生き、そして食べ尽くしていった人たちとも言えます。
壁があれば家の壁として使い、石があれば別の建物に使い、丈夫なアーチがあればその上に家を建てる。彼らにとってローマ時代の建物は、保存して眺める「遺跡」というより、そこにある使えるものだったのでしょう。
ただし、これはタラゴナに限った話ではありません。
例えば京都の街を掘れば、さまざまな時代の家や寺、道路などの跡が出てきます。古いものの上に新しいものを造り、さらにその上に次の時代の人々が暮らしてきました。
つまり昔の人たちが遺跡を大切にしなかったというより、過去を「歴史」として切り離し、保存して後世に残そうという考え方そのものが、もともとなかった。
そう捉えるほうが自然なのだと思います。
プレトリ(中世の王の城)

現在「プレトリ」と呼ばれている巨大な石造建築は、もともとローマ時代、属州の行政地区とサーキットを結ぶための建築の一部で、最初から王の城として造られたわけではありません。
中世になると、この建物は改造され、「王の城(Castell del Rei)」として使われるようになります。かつてローマ帝国の行政施設だった建物に、今度は中世の王が入ったわけです。
現代人から見ると、「ローマ遺跡を城にしてしまった」と感じるかもしれません。しかし当時の人々からすれば、逆でこれほど丈夫で便利な建物がすでにあるのに、なぜ新しく造り直すのか。
石を切り出し、運び、巨大な城を一から建てるには莫大な費用と労力が必要ですが、目の前に何百年も立ち続けている巨大建築があれば、それを利用する方が圧倒的に合理的です。
そして、この建物の役割はそこで終わりませんでした。時代が変わると兵舎になり、その後は刑務所として1953年まで使われました。
つまり、一つの建物が、
ローマの行政施設(元々は)
→ 中世の王の城
→ 兵舎
→ 刑務所
→ 博物館・遺跡(現在)
と、何度も役割を変えてきたのです。建物は同じでも、そこへ入る人間と社会が変わるたびに、その意味も変わりました。
プレトリ内の展示①

プレトリ内の展示を、ここでいくつか見てみましょう。まず、こちらは銅像の「台座」です。
ローマ時代のタラゴナには、神殿はもちろん、フォルムや競技場、円形闘技場など、街のいたるところに林立する程にたくさんの像が立っていました。ここに展示されているのは、その像を載せていた台座の部分です。

ローマ時代の像というと、私たちは白い石像を思い浮かべますが、実際には青銅で作られた像も非常に多くありました。ところが青銅は、後の時代になると貴重な金属資源として再利用されます。像は溶かされ、武器や道具、さまざまな金属製品へと姿を変えてしまいました。
そのため、像そのものはほとんど残っていません。像は消えてしまったのに、重くて再利用しにくい石の台座だけが残った。
だから今、私たちはこうして「像のない台座」を見ているわけです。さらにこのあと街を歩くと、こうしたローマ時代の石が、後世の建物の壁などに再利用されているのを見ることができます。
【ローマの彫像の多くは首がない、一体なぜか?】

あと、台座の展示の奥に進むとこのような石像があります
ところで、今まで博物館でローマ時代の石像を見た方は、「どうして首のない像ばかりなの?」と思うことがありませんか。
もちろん、長い年月のあいだに壊れたり、後の時代に破壊されたりして頭部を失ったものもあります。ただ、それだけではありません。ローマ時代には、最初から頭部を別に作り、取り外したり交換したりできるようにした像もありました。
全身像を一から作り直すのは、大変な手間と費用がかかります。そこで、正装姿や鎧姿などの胴体はそのまま使い、人物が変われば頭部だけを新しくする。今風に言えば「使い回し」です。
特に皇帝や有力者が交代した場合には、新しい人物の顔に取り替えることで、像そのものを再利用することができました。

例えば日本だと、安倍首相の像の後に、首だけ取り替えられ ⇒ 菅首相 ⇒ 岸田首相 ⇒ 石破首相と言う感じです。高市首相は女性なので、取り替えが効かず新調されたと言う感じでしょうか。
と言うことで、ローマの像に首がないものが多いのは、単に「壊れたから」とは限らないのです。
銅像は金属として溶かされ、石像は胴体だけが再利用される。ローマ時代の像を見ていると、当時の人たちが意外なほど実用的だったことも見えてきます。
神殿の上に建つカテドラル

旧市街の坂を一番上まで登ると、タラゴナのカテドラルがあります。なぜ、こんな高い場所に建てられたのでしょう。
実はこの場所、ローマ時代にも街の中で最も重要な場所の一つでした。現在カテドラルが建つ一帯には、皇帝崇拝のための巨大な神殿を中心とした聖域が広がっていたのです。
ローマ帝国が終わり、時代も宗教も変わりました。しかし、街の中で最も高く、象徴的だったこの場所の重要性まで消えたわけではありません。
やがて、その場所にはキリスト教のカテドラルが建てられます。
つまり、ローマの神殿がそのままカテドラルになったわけではありません。神殿は失われましたが、「街で最も重要な場所」という役割は、形を変えながら受け継がれていったのです。
【ローマ時代の神殿と現在のカテドラルの位置関係】
城壁

タラゴナのローマ遺跡の中でも、最も古いものの一つが城壁です。その起源は紀元前3世紀末、ローマがイベリア半島へ本格的に進出し始めた時代までさかのぼります。
この時点では、タラコはまだ後世のような華やかな属州都市ではなく、ここはまず征服を進めるための軍事拠点でした。
そのため、ローマ人がこの場所にやって来て、最初から巨大なフォルムやサーカスを造ったわけではなく、まず必要だったのは自分たちを守るために城壁が築かれました。
つまり、現在観光客が歩いて見ている巨大な石の壁は、後に大都市となるタラコの、かなり初期の姿を伝えているのです。
なぜ、こんな巨大な石を使えたのか

城壁を間近で見ると、驚くのは石の大きさです。下部には、人間一人では到底動かせそうにない巨大な石が並んでいます。これを見ると、「ローマ人には、現代では失われた特別な石積み技術があったのではないか」と思いたくなります。
しかし、本当に驚くべきなのは石を積む技術だけではないのかもしれません。これだけの石を切り出し、運び、決められた場所へ並べるだけの人間を動かせたこと、そこにこそローマの本当の強さが見えてきます。
巨大建築は、一人の優れた石工だけでは造れません。石切場で働く人、石を運ぶ人、道具を作る人、食料を用意する人、作業を指揮する人、そして、それらを長期間維持するための資金と行政組織それらが全て揃って初めて出来上がったものです。
一方、ローマ帝国崩壊後の社会では、同じ規模の行政、財政、物流を維持することは難しくなります。
それ故、巨大な石を使う必要がなければ、より扱いやすい小さな石で造ればいいとなったと言うことです。それは技術の後退というより、社会の規模に合った建築へ変わったと見ることもできます。
巨大な石そのものより、本当に巨大だったのは、それを動かすことのできた組織だったのかもしれません。
タラゴナの城壁は、ローマの建築技術を残した遺跡であると同時に、ローマという国家が、どれほど大きな人間と物資を動かす力を持っていたのかを残した遺跡でもあります。
記事は取材時点のものです。現在とは記事の内容が異なる場合もありますのでご了承ください。間違った情報、また有用新情報、分かり難い点や質問等ございましたら情報共有いたしますので、サイト内の「バルセロナ観光情報掲示板」に書き込んでください。
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@ | この記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。 |
| アこの記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパを旅し1997年よりバルセロナに在住。。 記事最終更新 2026.08.21 | ||
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