
モンセラットを掘り始めると、奇岩の山と修道院、黒いマリア像を眺めるだけでは済まなくなります。
なぜ、こんな山の中に修道院が生まれたのか。なぜ人々はここへ巡礼するようになったのか。そして、戦争で破壊され、修道士が追われた時代を経験しながら、なぜモンセラットは何度も再生し、やがてカタルーニャを象徴する場所のひとつになったのか。
修道院、黒いマリア像、巡礼、ベネディクト会、ナポレオン戦争、そしてカタルーニャという土地の歴史。ひとつ理解したと思うたび、その後ろから別の事情が現れます。
ここは、モンセラットを簡単にまとめるための記事ではありません。
なので、初めてモンセラットを訪れる方や、行き方・見どころなど観光に必要な基本情報を探している方は、まず本記事をご覧ください。
目次
名前の由来と山の起源

アルプスにあるヨーロッパ最高峰の一つ、モンブラン。日本では栗のケーキの名前としてすっかりお馴染みですが、もともとは山の名前です。フランス語で Mont(モン)は「山」、Blanc(ブラン)は「白」。「白い山」という意味になります。
では、モンセラット(Montserrat)は?
こちらも最初の Mont は「山」。そして serrat は「のこぎりで切ったような、ギザギザした」という意味です。つまりモンセラットとは、簡単に言ってしまえば、
- ギザギザの山
- のこぎりで切ったような山
という意味です。

実際に山の裏側の少し離れたところから眺めてみると、その名前にも納得します。巨大なのこぎりの刃を並べたように、山の稜線がギザギザと続いています。
では、この奇妙な形の山は、いったいどうやってできたのでしょうか。昔の人々は、天使が黄金のノコギリを使って山を切ったとも考えました。
もちろん、本当に天使が切ったわけではありません。ただし、この山が現在の姿になるまでの話をたどってみると、こちらはこちらで、なかなか壮大な話になります。
山の起源

日本ではほとんど見られない、周囲の平地から突然立ち上がる巨大な岩山それがモンセラットです。
長さ約10km、幅約5km、周囲約25kmの楕円形をしたこの山塊は、遠くから見ると一つの巨大な岩山のように見えます。その姿は、オーストラリアのエアーズロック(ウルル)を思わせます。
ただし、両者の成り立ちは大きく異なります。ウルルが巨大な一枚岩であるのに対し、モンセラットは礫岩(れきがん)と呼ばれる岩石でできています。その始まりは、今から約4,000万~3,400万年前。
扇状地とデルタの形成
約4,000万年前、現在のカタルーニャ北部では、ピレネー山脈をつくる大規模な地殻変動が続いていました。
隆起した山地では、雨や河川によって岩石が崩され、大小の石や砂、泥となって低地へ運ばれていきます。川に押し流されるうちに石の角は削られ、次第に丸みを帯びた礫へと変わっていきました。
山地を流れてきた川が平坦な場所へ出ると、傾斜が緩くなり、流れの勢いが弱まります。すると、それまで運んできた石や砂を運びきれなくなり、まず重く大きな礫から堆積していきます。
こうして山の出口を頂点に、土砂が扇を広げたように積み重なってできる地形が扇状地です。日本でイメージするなら、甲府盆地が分かりやすいでしょう。

周囲の山から流れ出した川が盆地へ入ると、それまで運んできた石や砂を堆積させます。それが長い時間をかけて扇状に広がり、現在ではその上に市街地やブドウ、桃などの果樹園が広がっています。
つまり、私たちが現在の甲府盆地で見ている扇状地も、基本的な仕組みは同じです。では、これをはるかに大きな時間の尺度で考えてみます。

約4,000万年前のモンセラット周辺でも、山から川によって大量の石や砂が運ばれ、巨大な扇状地が形成されていました。
さらに当時、この低地には海や湖が広がっていた時期があり、川が運んできた土砂は水辺から水中へも大量に流れ込みました。
つまり、現在のモンセラットをつくった堆積物は、山から流れ出した巨大な扇状地と、その先の水域へ張り出したデルタが連続するような環境に、長い時間をかけて積み重なったものです。
その中心となったのが、直径数センチから、ときには数十センチにもなる丸い礫でした。
現在、モンセラットの岩肌を近くで見ると、丸い石が無数に埋め込まれているのが分かります。あれは、かつて川によって山から運ばれてきた石なのです。
このような堆積が何百万年にもわたって繰り返され、礫や砂、泥は厚い地層となって積み重なっていきました。
4,000万年前とは、どんな世界だったのか
あまりに昔すぎて、「4,000万年前」と言われても、なかなか実感が湧きません。そこで、当時の世界を少しだけ覗いてみます。
恐竜が絶滅してから、すでに約2,600万年。人類はもちろん、私たちにつながる霊長類も、まだ現在とはずいぶん違った姿をしていました。
そして海辺には、陸上を歩くことのできる、クジラの遠い祖先がいました。


つまり、この時代に積み重なった大量の礫や砂が、数千万年という時間をかけて、モンセラットの材料となる巨大な礫岩の地層へと変わっていったのです。
ただし、この時点では、まだ私たちが知る「ギザギザのモンセラット」ではありません。
あの奇妙な姿が生まれるのは、ここからさらに先の話です。
大陸プレート移動

さて、ここで少し昔の記憶をたどってみます。「アルプス・ヒマラヤ造山帯」こんな言葉を、学校の地理や地学で習った記憶はないでしょうか。
アルプス山脈からヒマラヤ山脈へと続く、地殻変動の活発な地域。私も昔は、試験に出るからと名前を覚えただけで、それが自分の目の前にある風景とつながることなど、ほとんど考えませんでした。
ところが、モンセラットの成り立ちを掘っていくと、あのとき暗記した「アルプス・ヒマラヤ造山運動」の話がここで結びつきます。

約2,500万年前から、アフリカプレートはゆっくりと北へ移動し、ユーラシアプレートを押し続けました。
二つのプレートがぶつかることで地殻には巨大な圧縮力が加わり、地層は押され、曲げられ、隆起していきます。アルプスをつくった巨大な地殻変動と同じ大きな流れの中で、イベリア半島周辺の地形もまた変化していきました。

そして、それまで長い時間をかけて堆積し、固い礫岩となっていたモンセラットの地層も、やがて持ち上げられていきます。

その後の長い浸食作用によって、現在目にする独特な形が生まれました。
隆起と浸食自体は日本でも見られるごく一般的な自然現象です。にもかかわらず、モンセラットだけが世界的に珍しい奇岩の山になったのには理由があります。
山全体が白っぽく見えるのは、大量の石灰分(セメントの主原料)を含んでいるためです。この石灰分のもとになったのは、当時の海底に無数に生息していた貝類やその他の海洋生物の殻でした。これらが長い時間をかけて堆積し、石灰分を豊富に含む地層をつくり出したのです。石灰分は「砂利同士を固める接着剤」の役割を果たし、そのため周囲の土や岩より浸食に強く、この山だけが突出して残ったのです。
モンセラットは今も年間1〜2ミリほど隆起を続けています。もっとも同時に浸食も進んでいるため、目に見える形は大きく変わりません。一方で、地中海は年間数ミリずつ縮小しており、5千万年後には消えてしまうかもしれないと予測されています。
こうした大地の営みを前にすると、私たちの人生や歴史の時間はほんの一瞬にすぎません。モンセラットに立つとき、過去から未来へと続く地球の長い物語の中に、自分自身も確かに存在していることを実感できるでしょう。
【カミムラ豆知識|プレートがぶつかるのに火山が無い】

アフリカ側のプレートとユーラシア側のプレートが押し合うことで、この地域の地殻が圧縮され、モンセラット周辺も隆起していったと述べました。ところが、モンセラットは火山ではありません。
同じようにプレートの衝突と深く関係して形成されたアルプス山脈やピレネー山脈も、日本のように火山がずらりと並ぶ山脈ではありません。
日本人にとっては、ここが少し不思議です。
学校では「環太平洋造山帯」を習い、日本列島には多くの火山があります。プレートがぶつかるところでは火山ができる、そんなイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。
では、なぜヨーロッパでは事情が違うのでしょう。大きな違いの一つが、ぶつかるプレートと、その衝突の仕方です。
日本周辺では、太平洋プレートやフィリピン海プレートという重い海洋プレートが、日本列島の下へ沈み込んでいます(上の画像のaとb)
海洋プレートが沈み込む際には、岩石などに含まれていた水が地下深くへ運ばれます。その水が放出されることで上部マントルの岩石が溶けやすくなり、マグマが発生します。それが上昇して、日本列島に数多くの火山をつくっています。
一方、アルプスやピレネーなどでは、大陸地殻を含むプレート同士が押し合う「大陸衝突型」(上の画像c)の地殻変動が大きな役割を果たしました。大陸地殻は海洋地殻より軽いため、日本付近の海洋プレートのように一方が深く沈み込み続けるというより、地殻そのものが押し縮められ、折り重なり、厚くなっていきます。
行き場を失った地殻が、いわば横から押されて上へ盛り上がっていくわけで、それは絨毯を横から押すとしわになって盛り上がるそれと同じ。こうして形成された代表的な山脈がやピレネーやアルプス、更には世界の屋根と言われるヒマラヤ。
エベレスト山はモンセラットと同じで昔は海だったと言う事実も興味深いのではないでしょうか。
ごく単純化して比べるなら、
日本:海洋プレートが沈み込む → マグマが生まれる → 火山
ヨーロッパの大陸衝突地域:地殻が押し縮められる → 厚くなる・隆起する → 山脈
という違いです。
【でも、同じヨーロッパのイタリアには火山があるじゃないか?】

その通りです。
イタリアには、噴煙を上げる写真のエトナ山やヴェスヴィオ山をはじめ、現在も活動する火山があります。これは地中海のプレート境界が、単純に「アフリカ大陸とユーラシア大陸が正面衝突している」だけではないからです。
イタリア周辺、とくに南部では、かつての海洋プレートの一部、かけらが残っていて別のプレートの下へ沈み込む場所があります。つまりここでは、日本と同じように「海洋プレートが地下深くへ沈み込む」仕組みが働いているのです。
沈み込むプレートから水などが放出されると、その上のマントルが溶けやすくなり、マグマが発生します。それが地表へ上がってくることで、イタリアには火山が存在します。
同じアフリカとユーラシアが近づいている地中海周辺でも、押し縮められて隆起する場所もあれば、プレートが沈み込んで火山ができる場所もある。地中海の地下は、私たちが地図で見る国境などとは関係なく、いくつものプレートや地殻の断片が複雑に動いているのです。
大聖堂外壁に見る山の起源

大聖堂に入る前に、少し外壁に注目してみてください。
【山の起源】の項でも述べましたが、大昔のモンセラットでは、川によって山から運ばれてきた砂利や砂が、千メートルを超える厚さにまで堆積しました。
外壁に使われている石をよく見ると、小石が集まった層と、細かな砂を中心とする層があるのが分かります。
川の流れが比較的穏やかな時には細かな砂などが堆積し、流れが強くなると、上流からより大きな礫まで運ばれてきます。その繰り返しが、こうした地層として残ったのです。
また岩全体が赤みを帯びているのは、堆積物に含まれる鉄分が酸化して赤褐色になったためです。地中海沿岸でよく目にする赤い土、スペインやイタリアの民家の屋根瓦がなぜ赤いのかの理由でもある赤土。
つまり大聖堂の壁は単なる建築材料ではなく、モンセラットができるまでの長い時間を切り取った「地層の見本」でもあるのです。
決して語られない落石の危険性
更に付け加えると、土よりは浸食に強かったのですが、岩と言っても小石の塊なので長年の雨、風、太陽光によって徐々に、小石が剥がれ落ちていき、それがこの独特の風景を造りだしたもう一つの要因でもあります。
尚この浸食は今も続いていて、小さい小石はもちろんですが、十年単位で大きな岩の塊が落下しています(2019年12月に落下)。ちなみに、モンセラットの教会の上を見ると….

実は、この心配は単なる想像ではありません。16世紀には、この「Diable(悪魔)」と呼ばれる岩塊付近で大規模な崩落が起き、修道院の建物の一部を押し潰し、4人の修道士が亡くなったことが記録に残っています。
現在は岩の亀裂などにセンサーが取り付けられ、そのわずかな動きが監視されていますが、10年後もしくは100年、千年、それより後のいつか必ず落ちて教会を大破させることは必至で、それは正に神のみぞ知ると言うところ。ちなみに、私のスペイン人の友人曰く、スペインの事だからどうせセンサーも壊れている可能性が高いとのこと。 おお怖わ~!
と言っても、ここカタルーニャでは地震は殆どなく、前回あった地震は約600年前の1427年ので、取り敢えず頭の上の岩の事は忘れて楽しく観光しましょう。
なぜ、この山が聖地になったのか?

ここまで、モンセラットという奇妙な山がどのようにして生まれたのかを、ずいぶん長い寄り道をしながら見てきました。では、ここから時計の針を一気に進めます。
数千万年にわたる地球の時間から、人間の時間へ。
現在のモンセラットには、切り立った岩山に囲まれるように巨大な修道院が建っています。しかし、改めて考えてみると不思議で、なぜわざわざこんな険しい山の中に修道院をつくったのでしょうか。
水も食料も簡単には手に入らず、冬は寒く、麓との行き来も大変です。現在なら道路やロープウェイ、登山鉄道がありますが、もちろん昔はそんなものはありません。
では、人々はこの山に何を求めてやって来たのでしょう。
その答えを探していくと、モンセラットの洞窟で暮らした隠修士たち、聖母マリアへの信仰、そして一つの不思議な伝説へとたどり着きます。ここからは、「山がどうやってできたのか」ではなく、「人間はこの山に何を見たのか」を追ってみます。
。
黒いマリア像の伝説――880年

モンセラットが聖地となった始まりには、一つの伝説があります。
時は西暦880年。ある土曜日の夕暮れ、山の麓で羊の世話をしていた少年たちが、モンセラットの山中に不思議な光が現れるのを目にしました。光は空から山へ降り注ぎ、それとともに美しい音楽が聞こえてきたといいます。
驚いた少年たちは大人たちに知らせ、やがて地元の教会の司教もこの出来事を知ることになります。そしてm人々が光の現れた場所を探したところ、山中の洞窟で聖母マリア像が発見されたと伝えられています。
そこで像を山から運び出そうとしたのですが、どうしても動かない。人々はこれを、「聖母は、この山に留まることを望んでいる」という意思の表れだと考えました。そこで無理に運び出すことをやめ、その場所に礼拝堂を建てて聖母像を祀ることにした。これが、現在まで伝えられているモンセラットの聖母発見伝説です。
もちろん、これは史実として確認された出来事ではありません。現在の黒い聖母像そのものも880年につくられたものではなく、一般に12世紀頃のロマネスク彫刻とされています。
【サンタ・コバ洞窟はここから見えます】

サンタ・コバ(聖なる洞窟)までは徒歩で行くこともできますが、往復で2時間ほどかかります。時間に余裕がなければ、わざわざ洞窟まで行かなくても大丈夫。上の地図右端にあるMirador(展望台)まで行けば、岩壁に建つサンタ・コバの礼拝堂を見ることができます。
実際にサンタ・コバまで歩いてみたい方はこちら
→ サンタ・コバ(聖なる洞窟)への行き方・所要時間
修道院が生まれる 11世紀

880年、黒いマリア像が発見された――これはあくまで伝説です。
ところが、そのわずか8年後の888年には、この山に4つの礼拝堂があったことが記録に残っています。
つまり、黒いマリアの伝説が生まれたころ、モンセラットはすでに人々が祈りに訪れる山になり始めていたのでしょう。
そして、それから約140年。1025年頃、その礼拝堂の一つを中心に小さな修道院がつくられます。これが、現在のモンセラット修道院の始まりです。
ちなみに日本では平安時代。藤原道長が生きていたころです。
巡礼地へ――中世のモンセラット

戦国江戸時代に訪れた日本人
モンセラット観光から少し話はそれますが、今から400年ほど前、このモンセラットを訪れた日本人たちがいたのをご存知ですか?
その一つが、九州のキリシタン大名がローマ法王のもとへ少年たちを派遣した「天正遣欧少年使節」です。そしてもう一つが、伊達政宗が仙台藩とスペインとの貿易(太平洋貿易)交渉のために送った「慶長遣欧使節」です。
どちらの使節団も旅の途中、このモンセラットに立ち寄り、数日間滞在しています。遥か昔、ちょんまげに着物姿の日本人が、現在の私たちと同じモンセラットの岩山を見ていたと思うと、なんとも感慨深いものがあります。
ちなみに、天正遣欧使節が帰途につく際、着物の下に着るものとして宣教師から贈られたのが、ポルトガル製の肌着(ポルトガル語で「Gibão」)。これが後に日本で、着物の下に着る「襦袢」として一般化していきます。「襦袢」という言葉も、ポルトガル語の Gibão(ジバゥン) がなまって生まれたとされています。
天正遣欧使節

1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、4人の少年がローマへ派遣されました。
日野江城下にあったセミナリヨ(神学校)で学ぶ生徒の中から選ばれた、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアンです。
彼らを中心とする使節団は、宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって編成されました。日本を出発した一行は、インドのゴアを経由し、ポルトガルのリスボンまで約2年半。その後、ルネサンス文化の中心だったフィレンツェなどを通り、ついにローマへ到着します。
ローマでは教皇グレゴリウス13世に謁見。その様子を描いた絵も残されています。(右下写真)帰路にはバルセロナ、そしてここモンセラットにも立ち寄りました。
さらに当時のスペイン国王フェリペ2世のもとを訪れ、再びリスボンへ。そして日本へ向かいます。1582年に日本を出発した少年たちが帰国したのは1590年。実に8年にも及ぶ旅でした。
旅の途中には、こんな逸話も残っています。トスカーナ大公国で舞踏会に招かれた少年たち。その中で伊東マンショは、トスカーナ大公妃ビアンカ・カッペッロから指名され、一緒に踊ったという記録が残されています。
また彼らがヨーロッパから持ち帰ったものの一つが、活版印刷機でした。これによって日本でも西洋式活版印刷による書物が作られるようになります。しかし、彼らが8年ぶりに戻った日本は、出発したときとは大きく変わっていました。
豊臣秀吉によるバテレン追放令がすでに出され、キリスト教への風当たりは厳しくなっていたのです。その後、4人はそれぞれ違った人生を歩むことになります。殉教した者、国外追放となった者、棄教した者。
嵐、座礁、熱病、海賊。そんな危険にさらされながら、地球を半周するような旅を成し遂げた少年たちでしたが、その先に待っていたのは決して明るい時代ではありませんでした。
ちなみに、かつて存在した日本の戦国イケメン「アイドルグループ・天正遣欧使節」を知っていますか?
横文字と歴史ウンチクのまじったポップな歌詞に、カッコいいラップパート。そして、短剣を使ったアクションダンス。
歴史から学ぶことの重要性と、これから進むべき私たち日本人の未来へのヒントを授けてくれます。
慶長遣欧使節団

天正遣欧少年使節が「キリシタンの本山詣で」であったこととは違い、伊達政宗が仙台藩とスペインとの貿易(太平洋貿易)交渉のために送った使節が、慶長遣欧使節団です。
その使節を率いた支倉常長(写真左)は、日本を出てメキシコのアカプルコに到着。その後、陸路で大西洋側まで移動し、そこから再び船に乗ってスペインへ渡りました。
さらにイタリアまで旅を続け、ヴァチカン宮殿でローマ教皇パウロ5世と謁見します。また、常長はローマ市民権を与えられ、ローマ貴族にも列せられました。
この慶長遣欧使節団には、もう一つ興味深い逸話が残っています。スペインで到着した港コリア・デル・リオには、支倉常長ら本隊とは別に、仙台藩の藩士や使節に加わった商人、水夫などの一部が残り、支倉の帰りを待ちながら長期間滞在しました。
その間に日本人とスペイン人が恋に落ち、結局そのまま日本へ帰らず、スペインに残った者もいたと伝えられています。そして興味深いことに、現在もこの町にはハポン(Japón=日本)という姓を持つ人々が数多く暮らしています。
400年以上が経った現在、その顔に日本人の面影を見ることはほとんどありませんが、彼らの中には、当時スペインに残った日本人たちの末裔がいると考えられています。(写真右)
モンセラット最大級の災難

長い年月をかけて巡礼地として発展してきたモンセラット。ところが19世紀、その歴史を一度断ち切るほどの出来事が起きます。
1811年、ナポレオン戦争でスペインへ侵攻して来たフランス軍がモンセラットに到達、修道院を占領します。
山の上にあるモンセラットは、祈りの場所であると同時に、軍事的にも利用できる天然の要塞のような場所でした。戦闘の舞台となった修道院は破壊され、さらに翌1812年にもフランス軍が再び侵入し、残っていた建物にも火を放つなど、徹底的な破壊を受けました。
建物だけではありません。長い年月をかけて蓄えられてきた書物や美術品なども失われ、修道士たちは山を離れました。1000年近く続いてきたモンセラットは、ここで一度、廃墟同然になります。
ところで、ただここでナポレオンを「修道院を破壊した侵略者」だけで終わらせてしまうと、歴史のもう半分が見えなくなります。
ナポレオンが登場した時代は、フランス革命によって、それまで何百年も続いてきた王や貴族、そして教会を中心とした古い社会の仕組みが大きく揺らいだ時代でした。
ナポレオンは戦争によってヨーロッパ各地を侵略した一方で、ナポレオン法典に代表される新しい法律や行政制度を広め、身分や特権に支配されてきた社会を近代へ、私たちの今暮らす社会の礎と動かした人物でもあります。
もちろん、だからモンセラットの破壊が正当化されるわけではありません。ただ、「古いものを壊した破壊者」と「新しい時代を運んだ革命児」その二つの顔を持っていたのがナポレオンでした。
【カミムラ|豆知識】

- 法の前の平等: 身分制度を廃止し、すべての人が法的に平等であると定めた。
- 所有権の絶対: 個人の財産を守り、自由に処分できる権利を保障した。
- 契約の自由: 個人や企業が互いの合意で自由に取引できるルールを作った。
- 家族の尊重: 家長の権限を強め、家族の秩序を守る姿勢を示した。
- フランス革命で生まれた自由や平等の考え方を、実際の法律として形にした。
- ヨーロッパや世界各国の民法典の基本モデルとなった。
- 日本の明治時代の法整備にも大きな影響を与えた。
修道院には厳しい時代だった19世紀

ナポレオン軍によって破壊されたのは、モンセラットだけではありません。当時の戦争では、スペイン各地の教会や修道院が略奪や破壊を受けました。
しかも、戦争が終われば元通りになったわけではありません。19世紀前半のスペインでは政治が大きく揺れ、教会や修道会を取り巻く環境も変わっていきます。1830年代には修道会の解散や教会財産の没収・売却が進み、長い歴史を持ちながら、そのまま修道院としての役割を失っていったところもありました。
日本でいえば、明治維新の廃仏毀釈で寺が廃寺となり、僧侶が寺を離れなければならなくなった状況を想像すると分かりやすいでしょう。
寺は僧侶にとって単なる職場ではありません。住居であり、仕事場であり、共同体そのものです。それを失うということは、現代風にいえば会社が倒産して失業すると同時に、社宅からも退去させられ、所属していた組織まで消滅するようなものでした。
つまりモンセラットも、ナポレオン軍に壊されたからといって、当然のように再建される保証などなかったのです。
ところで、国民の大多数がカトリック教徒だったスペインで、なぜ修道院が閉鎖され、修道会が解散させられ、教会の財産まで没収・売却されたのでしょうか?
この話、少し掘ると19世紀スペインの大きな泥沼に入っていきます。ガイドブックではまず語られない、その時代の裏側をもう少し覗いてみましょう。
ぬかるみ記事へ続く >>>
再建に追い風となった時代

ナポレオン軍によって徹底的に破壊され、その後は修道院の解体や財産没収という時代の荒波にも巻き込まれたモンセラット。
それでも修道士たちは戻り、少しずつ再建が始まります。
ところが、ここでモンセラットにとって思いがけない追い風が向こうからやってきます。
19世紀のカタルーニャでは、自分たちの言葉や歴史、文化をもう一度見直そうという「ラナシェンサ」と呼ばれる文化復興運動が広がっていきました。
別にモンセラットが仕掛けた運動ではありません。
ところが、自分たちの歴史や文化を見直そうと周囲を見渡してみると、そこには何百年もの歴史を持つモンセラットがありました。
黒いマリアへの信仰、古い修道院、そして長く続いてきた巡礼。
それまで「カトリックの聖地」だったモンセラットに、次第に**「カタルーニャを象徴する場所」**という新しい意味まで重なっていきます。
つまり、必死に再建を始めたところへ、時代の方からモンセラットの価値をもう一度見つけてくれたようなものでした。
壊滅的な破壊から立ち直ろうとしていたモンセラットにとって、この偶然の追い風は、その後の復興と発展を考えるうえでかなり大きかったのです。
独裁政権とモンセラット
20世紀へ。
スペイン内戦、フランコ独裁。
カタルーニャ語や地域文化が抑圧される中で、モンセラット修道院が持った特殊な位置について
そして、現在のモンセラットへ
最後に現在の修道院、黒いマリア像、少年聖歌隊、巡礼者、観光客
- 右側は、世界のカトリックと巡礼地
- 左側は、モンセラット自身の歴史
- その間を通った先に、大聖堂と黒いマリア像がある
大聖堂前のパティオは、単なる入口ではありません。右側には世界各地の大聖堂や巡礼地、左側にはモンセラットの歴史が描かれています。片側で世界の広がりを、もう片側でこの聖地が歩んだ時間をたどり、その間を抜けて大聖堂へ入る。いわばここは、本を開いて本文を読む前の「まえがき」にあたる場所です。
壁に記されている文字は短く、長い説明文はありません。ファティマ、ルルド、サンティアゴ巡礼路――聖地の名前と象徴的な絵を組み合わせ、ひと目で意味の大筋が伝わるようにつくられています。
これは、文字を読めない人にも聖書や信仰の物語を伝えてきた、教会の古くからの方法です。そして不思議なことに、この方法は、文字を読めても長い文章には立ち止まらず、数秒ごとに画面を切り替えるTikTok時代の現代人とも、非常に相性がよいのです。
教会装飾として見ると、ちゃんと順序があります
- 外の広場――日常の世界
- パティオ――信仰の世界へ切り替える場所
- 左右の壁――モンセラットの歴史と、世界の教会とのつながり
- 正面ファサード――キリストと十二使徒
- 大聖堂内部――祈りと典礼の空間
- 黒いマリア像――巡礼の目的
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この記事を書いた人:カミムラ:生まれ京都府。1989年日本を離れバックパックをかついで海外へ。アジア、アフリカ、中南米、ヨーロッパを旅し1997年よりバルセロナに在住。 記事最終更新 2026.09.16 |
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