目次
- 1 4
- 2 概要
- 3 バルセロナからバスで2時間。フランス国境に近い漁港のカダケスは夏のリゾート地として知られていますが、そこから徒歩20分程のPort-Ligat(ポル・リガット)と言う地中海の入り江にダリがが晩年を過ごした家「Casa Museu Salvador Dali 」があります。 奇才ダリと知られ、独特の口ひげと奇抜なスタイル、数々の尊大な名言で生前は欧米のマスコミの注目を集めていたダリ。ただ、親しい友人達の前では非常に繊細、気の行き届く常識人だったと知られるダリ。本当のダリを知る上では、なくてはならない場所がこのダリの家と言えるでしょう。
- 4 家の成り立ち
- 5 ガラとの出逢い
- 6
- 7 卵の家
- 8 4つのスペース
- 9 専属ガイドによる説明
- 10
- 11 シロクマお出迎え
- 12 ダイニング
- 13 図書室
- 14 テラス
- 15 アトリエまでの通路
- 16 アトリエ
- 17 黄色の居間
- 18 鳥の部屋
- 19 寝室
- 20 クローゼットと写真部屋
- 21 楕円の部屋
- 22 パティオ
- 23 裏庭
- 24 プールと神殿
- 25 バーベキュー場
- 26 電話シャワー
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概要
バルセロナからバスで2時間。フランス国境に近い漁港のカダケスは夏のリゾート地として知られていますが、そこから徒歩20分程のPort-Ligat(ポル・リガット)と言う地中海の入り江にダリがが晩年を過ごした家「Casa Museu Salvador Dali 」があります。
奇才ダリと知られ、独特の口ひげと奇抜なスタイル、数々の尊大な名言で生前は欧米のマスコミの注目を集めていたダリ。ただ、親しい友人達の前では非常に繊細、気の行き届く常識人だったと知られるダリ。本当のダリを知る上では、なくてはならない場所がこのダリの家と言えるでしょう。
家の成り立ち
1930年にポートリガットの入り江の端にある小さな漁師小屋を購入し、途中アメリカに亡命していた期間を除き、約40年の時間をかけて増築、妻のガラが亡くなる1982年までここで暮らしました。 漁師小屋を購入した際、隣のカダケスの町からは道路も無く家財道具は全て細い石段の道をロバで運びました。ちなみに住み始めた当初、現在の熊の玄関の間のみで、電気もないオイルランプが唯一の灯りの狭い空間にガラと二人、足の踏み場もないようなありさまは、正に50年前に大ヒットしたかぐや姫の名曲「神田川」。 尚、傾斜地に少しづつ部屋を増築したことにより、上下左右複雑に部屋が配置され内部はまるで迷宮のようになっています。 |
ガラとの出逢い
この家を語る際にダリと共に忘れてはならない存在のガラ。その出会いは、パリでダリの描く絵を扱っていた画商と共に、スペインに住むダリを訪れたシュルレアリスムの詩人ポール・エリュアール。 |
その妻で同行した、ダリよりも10歳年上のロシア人女性のガラ、夫と娘がいるにも関わらず二人は知り合って直ぐにお互い強く惹かれあい、その後ガラの夫エリュアールの了解のもとで恋愛関係をこの漁師小屋からスタートさせます。
尚、ダリの父親はダリが人妻と恋愛関係にあったことに非常に不満で彼を勘当、1948年まで父子が再開することはありませんでした |
卵の家
またこの家は別名「卵の家」とも呼ばれ邸内には幾つもの卵のオブジェが置かれています。ダリにとってタマゴは完璧性や誕生を表すモチーフで、また自分の内面の脆さを意識していたダリにとって、卵の殻の硬さも安心と自信を与えてくれた大切な要素でした。自伝には「ガラと私は神聖な2個の卵のうちの1つから生まれた」と綴り、ガラと自分が一卵性双生児のように離れられない関係であること、そして卵への憧れを吐露しています。
と言う訳で、徹底的に卵にこだわりを持つダリ。晩年、自ら陣頭指揮に立ち全精力を傾け作ったダリ劇場美術館の上部に並ぶ卵の意味もこれで理解できるのではないでしょうか。 |
4つのスペース
美術館(家)は大きく分けて4つのスペースからなっています。
家の内部はサロン、寝室などの住居スペースとアトリエ、画材などを保管したワークスペース。
もう一方の家の外はパティオを含めた庭、そしてプールに分かれています。
見学する順番は住居部分(アトリエ含む)その後に、庭、パティオ、そして最後にプールとなり、それぞれポイント毎に番号が振られた標識がたっています。
専属ガイドによる説明
庭やテラス、プールは自由に見て回れますが、家の中は美術館の専属ガイドの、スペイン語もしくは英語での案内となります。 予約の指定時間になると、チケットオフィスの横の入り口階段よダリガイドが家の中へ通してくれます。 尚、家の中は各部屋のスペースが小さいこともあり15分毎に1グループ8人で回っていきます。 1時間に最大で32人しか入場できないので、夏は入場チケットは直ぐに完売されます。なので、旅程が確定したらなるべく早く購入されることをお勧めします。 |
シロクマお出迎え
ここから、見学コースを順に解説していきます。
家に入ってまず目に入るのがこの白熊ですが、それ以外にもダリらしい装飾が部屋中にちりばめられています。ここで主な物を、詳しく説明していくと….
①熊の剥製
これは、イギリスの富豪でシュールレアリスムのコレクター、エドワード・ジェイムズからダリにプレゼントされた物で首にはメダルや宝石を散りばめたネックレスが掛けられています。
また、エドワード・ジェームス1938年のダリの作品をすべて購入、また2年間にわたりダリの画材など制作資金を提供したなど、ダリに心酔バックアップしたパトロンと知られています。
ちなみに、エドワード・ジェームスもダリに劣らず変わり者で、その晩年はメキシコのジャングルのなかにコンクリート建築を中心とした不思議な楽園ラス・ポサスを死ぬまで延々と作り続けました。
左からエドワードジェームスのイギリスの邸宅、若い頃のダリとジェームス、ジェームス晩年、ダリ晩年。
② 杖と火縄銃
ダリが生前に愛用していた色んな種類の杖と、15世紀に作られたドイツ製の火縄銃。この火縄銃は1957年にダリが制作したリトグラフの「ドン・キホーテシリーズ」に使われた物です。
③ランプ
部屋の照明に熊が右手に持つランプ。電球を覆う木を編んだランプシェードは、なんと漁師がエビを捕る際に使う籠を利用した物です。シーフード好きで知られるダリならではの発想。
④フクロウの剥製
ダリの家には幾つもの剥製が置いてありますが、このフクロウは知恵を象徴しています。また、その後方を注意して見ると額に入った蝶が飾られていますが、その蝶の羽の模様がフクロウ顔そっくりになっていて、2度繰り返すことで顔を強調しようと言う意図がみてとれます。
⑤イモテールの花
ガラが特に好んだハーブ、イモテールの花がクローゼットの上に飾られています。一見するとミモザにも見えるこの花、乾燥させた後も色や形の変化が無いことから、スペイン語で言うインモルタル inmortal(不滅)、シエンプレビバ siempreviva(永久に生きる)とも呼ばれ、ガラが晩年住んだガラ城(プボール城)にも常に置かれていました。
⑥ 唇ソファー
メイ・ウエストの唇ソファと呼ばれる唇の形をしたソファー。
20世紀でも最もセンセーションなソファーと言われ、ここ以外にフィゲラスのダリ劇場美術館、プボール城でも見られます。
ただ、不思議なことになぜか?ここのソファーだけは緑の葉っぱの生地となっています。
ちなみに、メイ・ウエストとはアメリカの女優で、今から100年前の戦前のマリリン・モンローのような存在でした。
メイ・ウエストは当時のほかの女優と異なりスキャンダル性など、ダリにとって理想の要素をあわせもつミューズだったといわれます。
ダリにとは夫も子供も捨てて来た妻のガラと言いい、わゆる世間で言う悪女、好みだったと言うことでしょうか。
ダイニング
白熊の部屋から左へと段差を上ると地味なダイニングルームになります。ちなみに途中の段差は、ここが元々は岩の上に建てられた漁師小屋だったところを、それをそのまま家にしたと言うなごりです。
では、この部屋を説明していくと….
① ミニチュア椅子
画像では見えませんが、ダイニングの左奥が暖炉になっていて、その前のベンチに3つのミニチュア椅子が並んでいます。まるで、マトリョーシカ人形をイメージさせますが、それはガラがロシア人と言うことからかも知れません。
② ダイニングテーブル
17世紀に作られたアンティークなテーブル。ダリの家全体に言えることですが、当時すでに世界的に知られた画家でとても裕福だったダリにしては、案外と質素なに暮らしていたと気づきます。
③ 錬鉄で作られた燭台
テーブルの上に立つ2つの燭台はダリがデザインした物で、これ以外にもダリ手作りの作品が家のあちこちに置かれています。
④ 貝殻、ヒトデ
ダリの数ある作品の中でも最も有名なあの「記憶の固執」。その中で溶ける時計のその背景に描かれているクレウス岬。よくそこへ散歩していたダリが途中、海辺で拾い集めた貝やヒトデが棚に置かれています。
⑤ ベラスケスが描いたフェリッペ4世
ダリが尊敬してやまなかった画家ベラスケス。彼の遺した作品の中でもよく知られるスペイン国王フェリッペ4世の肖像画(左)。数あるベラスケス作品の中からこの絵が選ばれているのは、髭にこだわりを持つダリだからこそ。
ちなみに、ダリのトレードマークにもなっている髭ですが、実は髭の角度にもこだわっていて、人知れず時計の針の示す10時10分になるようにしていました。
⑥ 闘牛
1961年にフイゲラスで開催されたダリの功績を称えたお祭り。その行事の一つの闘牛のポスターが壁に貼られて、そのポスターをよく見ると中にダリが描いた闘牛の絵もあります。
ちなみに、スペインを離れ死を迎えるまでの50年をフランスで過ごしたピカソも、かなりの闘牛好きだと知られています。
図書室
ダイニングから更に階段を上ると、そこはリビングも兼ねた図書室があります。現在、本はフィゲラスのダリ美術館に保管されていて、ここに置かれているのはイミテーション。 ところで蔵書は芸術はもちろんですが、建築、文学、哲学、物理学、医学、数学、自然科学など非常に多様なテーマに渡っていて、ダリの溢れんばかりの好奇心が伺い知れます。 |
ちなみにダリは毎晩、必ず本棚から一冊の本を取り新らなたインスピレーションを得るためにそれを徹底的に読み込み研究しました。本棚の上には白鳥の剝製が並びますが、ダリによると白鳥は生の象徴で横にいる鷲は死の象徴、その2つが対比するように部屋に並んでいます。
また、白鳥はダリがよく作品を描く際に用いたモチーフでもあるギリシャ神話「レダと白鳥」を示しているとも解釈できます。
尚、フィゲラスのダリ美術館で見ることが出来るダリの作品の一つの「レダ・アトミカ」においては、白鳥と台座に座ったスパルタの神話の女王レダが妻のガラに置き換え、ダリは白鳥に姿を変えて描かれています。
白鳥の後ろにある絵はダリがカダケスの身近な日常の風景をキュービズム的に解釈描いた作品の複製(本物はフィゲラスのダリ美術館蔵)。 ちなみに、描かれた場所はカダケスの街の海岸で見ることが出来ます。 |
テラス
図書館の続きに訪れる小さなテラス。全体がまばゆくばかりに白く塗られた空間、またの後ろを見ると、ダリがデザインした鳩小屋がせまるように見えます。ちなみに、ここでの見どころは壁をくり抜いて作られたパノラマ窓。 ポートリガット湾の全景が眺められ、自然を切り取ったまるで風景画のようにも見えます。 このテラスを見学した後は、再び最初の白熊の部屋まで一旦戻ります。 |
アトリエまでの通路
白熊の部屋まで戻ると、今度は2階へ熊の横の階段を上がって行きます。
すると、迷路の様に部屋が繋がっている家の、それぞれの部屋への分岐点とも言える場所に着きますが、この場所に飾られているものを簡単に説明していくと….
① 和日傘
この場所で一番目立つ、天井を覆い被さる様に置かれている日傘。
なんとなく日本ぽいですが実は昔、日本のテレビ局TBSからプレゼントされた物で、ダリも大変気に入っていたようでインテリアとして使っています。
ちなみに、フイゲラスのダリ劇場美術館にも日本の昔の羽子板や屏風が作品の中に使われています。
② ウニの骨格
ウニの骨格のイラストが描かれていますが、それはダリはウニが持つ同じ形の部分が中心から5つの放射状に並ぶ「五放射相称」という数学的にも規則的な構造こそが完璧な動物の証であると信じ、称賛していたからです。
ちなみに、ダリはこのウニの骨格以外にも犀の角を対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術と讃え、またハエの複眼、ツバメの尾などに完璧な自然の美を見いだし崇拝していました。
③ ミレーの晩鐘
ウニの骨格の横にあるのがミレーの2枚の「晩鐘」。
いわゆる偏執狂的批評法と呼ばれる潜在意識の奥底にアクセスことによりシュールレアリスム(超現実)を作り上げるダリが編み出した手法を駆使し、この「晩鐘」に徹底的、正に偏執狂的にこだわり続けたダリでした。
ちなみに、本来のこの絵についてミレーは「かつて私の祖母が畑仕事をしている時、鐘の音を聞くと、いつもどのようにしていたか考えながら描いた作品です。彼女は必ず私たちの仕事の手を止めさせて、敬虔な仕草で、帽子を手に、憐れむべき死者たちのためにと唱えさせました」。
ですが、ダリは全く別の解釈をし、描かれている男性を交尾の後にメスに食べられる運命のオスのカマキリに見立て勃起した股間を帽子で隠していると言い、またダリは土の下に堕胎した嬰児の棺が埋まっており、夫婦がその死を悼んでいるというふうに解釈します。
④ モデルの部屋
階段の上にはモデルの部屋と呼ばれる部屋がありますが、ここへは入れません。
中に入れないので、特に説明することは無いのですが、下から遠目に眺めると奥に見えるマネキンが気持ち悪いで(笑)です。
アトリエ
ダリのアトリエがここ。
当時、使用していた絵の具や筆などがそのまま置かれていて、ダリ好きの人にはたまらない空間となっています。
ところで、潜水服を着て講演に上がるなど数々の奇行や「狂人と私の唯一の違いは、私が狂っていないことだ」というような発言を繰り返したり。
また、金と名声の追求は芸術への裏切りだと前衛芸術家たちが考えていた時代、ダリはその両方を積極的に追い求めたりと、そんなダリでしたが、この家での日々の生活は非常に規則正しいものでした。
ダリは実は几帳面な人で自分で決めたスケジュールを守ることに徹し、日光を最大限利用するために日が昇る早朝からアトリエで働き、昼食(スペインは13時半)前に一旦シャワーを浴び、ランチの後は短い昼寝をとりました。
また、午後は創作のインストール得るため本や資料を読み込み、夕方は訪問客を受けい入れると言う様に、一日を可能な限り有効に使いました。
ちなみに、この短い昼寝についてもダリは「鍵を持って寝る」と称し、それはアインシュタインやアリストテレス、バルセロナウォーカーのカミムラなど、名だたる世界の賢人たちも実践していた方法です。
では、具体的どんな昼寝をしていたかと言うと….
① イスに腰掛けたまま眠る(ひじ掛け付きの椅子)
② 指と指の間に乗せるようにして手にカギを持つ
③ リラックスして眠りに落ちる
④ 眠りに落ちるとカギが手から落ち、ガチャン!と音がする
⑤ すると見事に目覚める!
と言うことで、無駄な時間を過ごさない姿勢。
奇行を繰り返し、当時メディアの寵児でもあったダリのイメージからは想像出来ない、自分に厳しく妥協なしの創作活動に多大な時間を費やしていました。
ちなみに、カタログに記載されているだけでも1,178と、パブロ・ピカソ、アンディ・ウォーホルに次ぐ多くの作品を残しまし。
まるでつい昨日まで使っていたように置いてある、色の滲んだパレットとパレットナイフ。
ところで椅子の前にある木製ボードのキャンバスには仕掛けがあって、後ろの鉄枠とキャンバスが床と壁の隙間に沈み込むことにより、上下にスライドするようになっています。
大きな作品は梯子使って描くことになりますが、晩年のダリにはそれはかなり厳しく考えた解決策がこれで、ダリ自身は椅子に座りながら描くことだけに集中し、キャンバスが必要に応じて上下するという仕掛け。
ちなみに、フイゲラスのダリ美術館にある巨大な天井画はダリの晩年に描かれたものですが、当時のダリにはかなり辛かったはずですが立って描き続けた。
晩年、ダリは人生の集大成として美術館に創設にかけていたと言うことがうかがい知れます。
黄色の居間
ソファの生地が黄色いことから、黄色い部屋(La sala amrilla)と呼ばれているこの部屋。
窓から海の景色を臨むこの部屋机の上のカタツムリは、ダリがデザインした時計とランプを兼ねた置物で、アメリカの高級宝飾店のティファニー製の特注品。
ちなみに、ダリは崇拝する精神分析学者のフロイトとの家を訪れた際、外に置いてあった自転車に張り付いていたかたつむりが、フロイトの頭のつむじの形そのものであったことから、以降ダリはカタツムリに強い拘りを持ち多くの作品でこの軟体物を描いています。
また、ダリはこの居間の窓にはちょっとした工夫を施しました。
海を臨む東側に向く窓、朝の日の出の陽(矢印)が窓から差し込むと、壁の鏡を介して陽が反射し、隣の寝室のベッドに陽が差し込むようになっています。
と言う訳でダリは毎朝、日の出の陽に起こされ一日をスタートしていました。
鳥の部屋
黄色の居間から寝室の間にあるのが、ここ鳥の部屋と呼ばれる空間で、ダリが飼っていたカナリアを入れていた鳥籠が今も当時のまま置かれています。
ちなみに面白いのは窓の右側にある小さな籠(赤囲み丸)。
これにダリは昆虫、コオロギ入れて、日本の鈴虫のように飼っていました。
ある論文によると虫の声を聴き分ける風情を感じるのは世界で日本人とポリネシア人だけで、スペイン人を含む欧米人にはただの雑音、うるさいと感じるだけだそうです。
スペインでも、鳥を飼っている人はいますが虫の声を聴くのにコオロギを飼っている人は皆無。
そんな中で、ダリはやはり常人では無い天才なのかも知れません。
寝室
各部屋を順番に上っていって最後にたどり着くのがこの寝室です。
赤と青のベッドカバーで覆われた2台のベッド、右側がガラ、左側がダリのベッドでした。
ちなみに現在からすると、ベットのサイズが随分と小さいと気が付くはずです。
ダリは172㎝、ガラは160㎝と大柄では無かったにしろ、昔は現在と違いどこもベッドは小さいものでした。
尚、生前はダリを残して愛人の元へ走ったりして決して良妻と言えなかったのですが、プボール城に住んでいた(別居)の彼女は重度のインフルエンザにかかり、その後、認知症の兆候が現れ始め、死の3カ月前にこの家に戻りダリに看取られここで亡くなりました享年87歳。
寝室の観側にあるタイルで円を囲むように作られた暖炉は、ダリのデザインでルネッサンス期の画家のヤン・ホッサールト(1472‐1533)の絵画「サン・アントニオの誘惑」からインスピレーショを得たと言われています。
寝室に隣接する浴室は2つあり小さいほうがダリ用、そしてもう一つ(上画像)がガラ用の浴室。
ちなみに、この家全体に言えることですが、既に世界的に知られていたダリにしては極めて質素な作りになっていて驚きます。
クローゼットと写真部屋
寝室のあとの見学は、ガラの部屋が続きます。
まず、クローゼットが置かれた部屋はガラにとって特別な意味を持つ写真や、雑誌の表紙がガラスの扉に貼られています。
当時の有名人との写真が幾つもあり、その一部を紹介すると、世界的な映画俳優イングリッド・バーグマン、グレゴリー・ペック、また結婚をかけイギリス王を退位したことで有名なウィンザー公爵夫妻など。
また、同じスペインを代表するピカソとのショット、更に市民戦争を経てスペインの独裁者となった悪名高いフランコ将軍との写真もありますが。
ただこの将軍との会見、握手している様子が彼がその後にスペインのみならず、ダリが世界中から非難を浴び続ける原因となりました。
写真以外にも第二次大戦中に戦火を避けて渡ったアメリカで1936年に有名なタイム誌に特集された時の表紙などもあります。
ちなみに、旧来の価値感を半ば否定する現代アーチストの作品が受け入れられ易い風土であったアメリカだったこともあり、個展を開けば全作品がたちどころに完売と言う人気と同時に多額の収入を得ることになります。
また、活動範囲が絵画にとどまらず、ジュエリーやハリウッド映画、ニューヨーク万博のパビリオンなど多方面に及び当時の一流のセレブやアーティストの交流を深めることになります。
映画「白い恐怖」(原題 Spellbound)。
ヒッチコック制作のサイコスリラー作品の背景をダリが担当しました。また、ダリはこの映画のために5つの背景スケッチを残しています。
当時ヒッチコックは強烈な夢のイメージを映画に表現すべく模索していたところに、ヒッチコックにとってダリ作品こそがぴったりイメージだったため起用することになりました。
映画の中で最も有名なのは、巨大な目玉を巨大なハサミで切り裂くシーンでダリ作品をモチーフにしたさまざまな演出により夢のイメージが表現されています。
↓以下の動画を参照
楕円の部屋
クローゼットの部屋を更に奥に進むと楕円の部屋があります。
漁師の納屋を買い取ってから何度も増築を重ねたダリの家ですが、この部屋がその最後に作られ、またガラ専用のシエルターとして隠れ家的な雰囲気が漂います。
彼女はここで何時間も過ごし、お気に入りの本を読んだり、彼女にとっての特別な訪問者を招きました。
この部屋の特徴の 1 つは、ドーム内で反響する音の残響 効果で、わずかな音も部屋全体に 響き渡ります。
また、カーテンは赤みがかった光を投影し、独特の雰囲気を醸し出しています。
懐かしいジュリー(沢田研二)にも通じるとがあるダリ。
パティオ
家の中を見た後、岩と漆喰で作られた狭い通路を通ってパティオへ向かいうと通路の左側には馬蹄形のテーブルが置かれた小さな夏のダイニングルームがあります。
奥の壁の左右には羊の角とろうそく、イモテールの花が窓の縁取りにあしらわれ、更にその上には羽が生えたサイの剥製が掛けられています。
スペインの暑い夏、ダリとガラはここで蝋燭の灯りの中、涼みながら食事をしていました。
左から浮遊するサイの角、ダリ劇場美術館のドーム、ダリ最後の作品のツバメの尾
ところで、サイの角はダリの作品にはよく出てくるアイコンの一つで、生前「サイの角とそが対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術」と語っています。
この他にも、アトリエまでの通路にあったウニの骨格でも既に解説しましたが、ハエの複眼(ダリ美術館ドーム)、ツバメの尾などを璧な自然の美を見いだし崇拝していました。
少し話はそれますが、ダリ作品を鑑賞、理解する上でこれらのアイコンは非常に重要ですので、美術館を訪れる前にあらかじめその意味を調べて整理しておくことをお勧めします。
裏庭
この家の別名「卵の家」と呼ばれる所以になった卵のオブジェが屋根を初め庭のあちこちに置かれています。
また、壁に特徴的な刈り取った干し草を集めるのに使うピッチフォークを何本も刺した鳩小屋。
このピッチフォークは幼児期のトラウマ体験などに起因する自己愛性パーソナリティ障害を抱えていたダリ。彼が生前語っていた「私の弱い現実観のバランスを保つための杖」と言う意味合いで使われています。
ちなみに、家の中の鳥の部屋ではカナリアを飼っていたり、ダリは鳥が好きだったようです。
食器で使われるフォークは、もともと農具のピッチフォークを模して発明されたもので、本来フォークと呼べばこの農具のことを指していました。
ただ時代を経て、食器のフォークの方が知名度が高くなり現在はフォークと言えば食器を指します。
更に鳩小屋の裏、少し上がったところにLas torre las Ollas(鍋の塔)と呼ばれる円筒形の小屋があります。
既に見てきた家にアトリエがありますが、ダリは時々この天窓のある明るい小屋もアトリエとして使用していました。
尚、現在ダリに関するオーディオビジュアルの部屋として利用されていて、中で数分の動画が見れます。
ちなみに外壁に詰め込まれている土鍋は、北風が吹くと小さな穴から音が鳴る様になって、少し話はそれますがガウディ作のカサ・ミラの屋上の煙突もそれと同様に風が吹くと音が鳴ると言われています。
更に、話はそれますがダリは、カサ・ミラのオブジェ群の大ファンと同時に大きな影響を受けていました。
ダリは生前、カサ・ミラ屋上の写真を常に持っていたと言いますし、インタビューを受けた際にはガウディとピカソの二人は数いる芸術家の中でも特別。彼らこそが本当の天才だと言っています。
鍋の塔から上がって行くと、階段のある小さな展望台があります。
その下を見るとオリーブの木立に Cristo de los Escombros(瓦礫のキリスト)と呼ばれるモニュメントがあります。
モニュメントの本体を形成するのは、朽ちた木製のボートが体、錆びた鉄の頭、屋根瓦の手足、更にレンガ、タイヤが使われています。
尚、これはポートリガットこの辺りを襲った嵐により破壊された家の屋根などの建材を再利用して作られた作品です。
ちなみに、生前ダリは「災害は常に利用されるべきだと」言っていました。
また、1970年にはここで日本の托鉢僧を加えた、ダリらしい意味不明のパフォーマンスを披露しています。
プールと神殿
最後に訪れるプール。
幅が僅か1.5メートルと非常に細長い作りとなっていますが、その理由の一つは土地のスペースの都合でこのサイズにしか作れなかった。
あとそれ以外に、ダリはこのプールをグラナダの世界遺産でもあるアルハンブラ宮殿の中庭の池をイメージしてデザインした故に、非常に珍しい形のプールとなっています。
世界遺産、グラナダのアルハンブラ宮殿の34m×7,1mの縦長の池(左)とライオンの噴水(右)
神殿
プールの一番奥にあるのが神殿と呼ばれるハレムを彷彿させる半円筒形ドーム。
クッションの後方の壁に埋め込まれた巨大なガラスの瓶は、ダリの代表作「記憶の固執」の背景がを始め多くのダリ作品に描かれているクレウス岬の灯台で実際に使われていたガラスランプです。
あと壁の上に掛けられている長い蛇はフランスのマリリン・モンローと称されたブリジット・バルドーの妹からの贈り物。
ちなみに、ダリが神殿と呼んだこの半円筒形ドームの元になったのは、なんとラジオを買ったときに付いて来た梱包材の発泡スチロール容器でした。
ダリの家のアトリエの端には、今もその梱包用の発泡スチロールがあります。
ダリが買ったラジオに使われていた梱包材、この発泡スチロールが神殿の原型となりました….
噴水
この噴水もアルハンブラ宮殿のパティオ デ ロス レオネスのライオンの噴水(上の上の右画像)のレプリカ。
闘牛士と、マノラと呼ばれる伝統衣装を着た女性の酒瓶(サングリア)に囲まれています。ちなみに、この酒瓶は典型的なスペインの観光客用のお土産。
その後ろにはダリがデザインした唇のソファーがあり、壁にはイタリアのタイヤメーカー、ピレリ社の看板が上下に貼られています。
この空間はアンディ・ウォーホルらに代表されるアメリカンポップアートに影響を受けて、ダリ流に作ったポップアートと理解してください。
中の酒は既に腐っているであろう、観光客お土産用の酒瓶。
噴水その2
神殿の反対側のプールの端にもう一つ噴水があり、こもやはりグラナダのアルハンブラ宮殿のライオンの噴水のコピーです。
噴水の頂上にある像は狩りの女神ディアナ、その下に口から水を吐くライオン達、更にその下にはリラックスした姿勢でもたれかかった2の子供。
全く意味不明の取り合わせですが、ダリ的には創作とは、いくつものアイデア、オブジェ、イメージの中から選択するのではなく、それらを積み重ね蓄積していくものこそがアートだとしています。
なるほど、ダリにとっては決して意味不明のがらくたでは無いと言う事は分かりますが、ただ常人には理解に苦しむところが正直あります….
また、噴水の近くには賢者の石を持った謎の人物(錬金術師?)その足元にはミシュランのゴム人形。この人形、正式名はビバンダム人形と言いますが、プールの脇で手を挙げていたり、椅子に座りくつろいでいるのがいたりと、まるでプールに住む小人の天使のようにも見えます。
バーベキュー場
スペイン人にとって週末、家族や友人とのバーベキューは欠かせないもので、ダリの家にもしっかりバーベキュースペースが作られていました。
ちなみに、薪や木炭はバルセロナ市内のスーパなら何処でも売っています。
電話シャワー
スペインで最初に設置された公衆電話ボックスの一つが、バーベキュー場の端に設置されています。
携帯電話の無い当時、ダリは訪れたゲストが使える様に電話を置きましたが最終的に水道を引きシャワールームとして使っていました。